利根川 ¦ 橋と文学
  

2010年8月

寄稿 : 佐々木 行さん



1.  利根川は..........

     関東地方を北西から南東にかけて流れ、太平洋に注ぐ大河。古くから板東太郎の名で 親しまれ、延長二九八・二キロ、大小の支流二八五、流域面積一万六八四〇平方キロ・・ ・」(「大日本百科事典」旧版、小学館)。ただしこの長さに関しては三二二キロという説 もある。いずれにしても、おおよそ三〇〇キロ、日本で二番目に長く、流域面積は一番広 い川である。

 その利根川に架かっている主な橋を歩いて渡ってみるか、と動き始めたのは今から三年 ほど前のこと。旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋を経て大阪・淀屋橋まで、街 道筋の主な橋を自分の足で渡り、橋の長さを歩測する“遊び”が一通り終わったときであ る。

 東海道と並行して、東日本の大きな川¦多摩川、利根川、信濃川、阿武隈川、北上川等 々¦に架かっている橋の長さの歩測にとりかかった頃であった。  利根川の橋の上を一、二、三、四、と歩数をかぞえて渡る「プロジェクト」、実は愚考 と愚行の塊は、今年(二〇一〇年)“一応”完了した。群馬県水上辺りではほんの渓谷に すぎなかった流れが、千葉県銚子辺りでは川幅六〇〇~七〇〇メートルに及ぶ大河になっ ていた。  利根川は長かった。大きかった。橋の数が多かった。

2.   利根川に.........

足掛け三年。本流は水上から銚子まで約二六〇キロ、支流の渡良瀬川は群馬県桐生から 埼玉県北川辺と茨城県古河の間まで約六〇キロ、橋を求めて利根川に通うこと四十回に及 び、渡った橋の数はおよそ壱百、橋上を歩いた歩数(一橋一回としての単純合計)四万八 千二百九十歩、一歩の平均歩幅七十八センチで換算して三十八キロメートル前後。

 通った回数の内訳は、
①本流の中・下流=前橋~銚子=二〇回、
②渡良瀬川八回、
③本 流の上流=水上~前橋=五回、
④そのほかの支流五~六回となる。
①②③④は完了した順 番。
なお利根川本流の中・下流、上流の区分は佐々木方式であって公の基準ではない  また平均歩幅七十八センチは、“歩測”始めたてのときは七〇~七十二センチだったも のが、次第に伸びて現在は七十五~八十センチになったものである。因みに、江戸後期日 本地図を完成させた伊能忠敬先生の歩幅は六十九センチだったらしい(「マンスリーとー ぶ」二〇一〇年八月号)。

 通った回数がこれほど多くなったのは、
(一)橋のある場所が鉄道の駅から離れたとこ ろ、
(二)駅から橋へのアクセスは自分の足が主、
(三)一つの橋から次の橋までの距離が 遠いため、まとめた数の橋のかけもちは無理、
(四)私自身の歩行限度が一日二十キロ、
(五)私の家から利根川最寄りの駅まで片道三時間以上が普通、
などの理由によって、一 日(一回)二~三橋しかこなせなくて、往っては帰り、往っては帰りの頻度が高かったた めである。

 橋の数は、
①中・下流三十五、
②渡良瀬川二十七、
③上流二十九、
④そのほかの支流十 橋ほど。
渡れるはずが架け替え工事で通行禁止、地図にない新しい橋が完成、歩行可能の 事前情報に反し自動車専用橋で歩行不可、高速道路橋だが、側道が付いていて渡橋オー ケー・・・現地に行ってはじめてわかる障害や幸運が入り交じっての百橋余になった。

 珍事・偶然の例、②のうち、桐生の中通り大橋(三七八歩)は、通りかかった日時が完 成開通式当日、テープカットの直後で祝賀ムードのなか、おめでたい気分で渡り初めに参 加したこと。

 橋と橋との平均間隔は、①五・八キロ、②二・〇キロ、③二・一キロ、④なし(計算対 象外)。二キロ程度ならだいたい次の橋が見えているため励みも出るが、五キロ六キロと なると行けど歩けど次の橋の姿が現れず、焦りと疲れから「神様、お助けくだされ!」と つい叫ぶこともある。

 先に述べた、本流二六〇キロと渡良瀬川六〇キロ、この距離を全部歩き通したというこ とではない。実際に川沿いに橋から橋へと歩いたのは、本流では水上~前橋~玉村間七〇 キロ、渡良瀬川では桐生~北川辺・古河間のほぼ全行程六〇キロ、合計一三〇キロという ところ。本流の玉村~銚子間は特定部分というか、「コ」の字型・「Z」字型というか、 アクセスの良い橋をいくつか選び、そこから下手へ、あるいは逆に上手へと気儘な歩き方 であった。  それにしても、利根川に足しげく通ったものだ。利根川に魅入られたかのように。

3.   長い橋が..........

 長い橋の上位三傑。①中・下流では取手~柏間の新大利根橋二七八〇歩、尾島~深谷間 の新上武大橋二〇四〇歩、取手~我孫子間の大利根橋一五八〇歩。②渡良瀬川では北川辺 ~古河間の新三国橋八八六歩、佐野・船津川~舘林・下早川田間の渡良瀬大橋七〇九歩、 北川辺~古河間の三国橋六七七歩。③上流では、いずれも前橋西部上手にある、上毛大橋 一〇四〇歩、新坂東橋七五〇歩、大渡橋六八〇歩。④その他支流では、烏川の岩倉橋五八 七歩、同じく烏川の烏川大橋五三五歩、吾妻川の吾妻新橋三二九歩。短い橋については割 愛。

 平均をとってみると、①八八三歩=六九〇メートル、②四二〇歩=三三〇メートル、③ 短い百歩未満の九橋を除いて、三〇一歩=二四〇メートル、ある程度そこにおける川幅の 長さを示す数字と言える。

 渡り切ってその先に復路として乗れる鉄道の駅、あるいはそこに到るバスの便などがあ るときは良いが、さもないと渡った橋を再び渡って戻って来なければならない。結局一つ の橋で往復二〇〇〇~三〇〇〇歩、所要時間三〇~四〇分という事態も生じる。特に茨城 と千葉の県境の場合はそれが殆どであった。例えば、銚子近辺の利根川大橋と利根かもめ 大橋ともに同じ長さの一四六〇歩、銚子大橋一三七〇歩、岩井~野田間の下総利根大橋一 三一〇歩。  利根川には長い橋が多かった。渡りでのある橋が待ち構えていた。

4.    文学..........

 (一)上流
先ず太宰治。上越線水上駅から五分の谷川橋(七〇歩)を渡り、谷川温泉 への登り道を十五分歩くと、集落の入り口道傍に「姥捨」碑が建っている。ダメ男嘉七が かず枝と心中を試みた現場近くであろうか。「水上駅に到着したのは朝の四時である。・ ・・このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが・・・、駅 前の自動車屋を叩き起こし」て谷川橋を渡って行く二人、帰りは嘉七只一人(『姥捨』)。

 谷川橋から約一時間下り、水上・湯原温泉を過ぎて笹笛橋(八〇歩)に来ると、右岸に 「与謝野晶子歌碑公園」がある。与謝野夫妻が前後四回水上を訪れたことに由来するそう で、寛・晶子二人の歌と詩の碑が十五ばかり。しかし、「山の動く日」「君死にたまふこ となかれ」はこの地にそぐわないという印象を受けた。

 土屋文明。高崎北方の群馬郡保渡田、利根川の右岸、大渡橋(前述六八〇歩)か平成大 橋(二七〇歩)から西へ七~八キロ入った所が、このアララギ派歌人の生誕地であり、記 念文学館がある。文明自身の歌の道のりと群馬県ゆかりの作家たちを紹介している。

 萩原朔太郎。利根川左岸前橋に生まれる。故郷前橋を詠じた詩篇は数多くあるが、その 一つ「帰郷」¦「わが故郷に帰れる日/汽車は烈風の中を突き行けり/・・・まだ上州の 山はみえずや。」利根川左岸に沿った敷島公園内に詩碑がある。また「大渡橋」と題する 詩は¦「ああ故郷にありてゆかず/塩のごとくにしみる愛患の痛みをつくせり/・・・過 ぎゆく利根川の水にいっさいのものを棄てんとす/・・・」と悲しい心情の吐露。

 広瀬川詩の道(うたのみち)。利根川の支流広瀬川は前橋の町中を水音をとどろかせて 走り抜けているが、その柳橋から久留万橋まで約一・二キロのよく整備された緑道には、 朔太郎の詩と「朔太郎賞」受賞詩など二十基もの碑が次から次へと現れる。途中の「朔太 郎橋」には、前橋文学館、朔太郎像のほかに、白秋・犀星・心平三人の文や詩を橋の四隅 に配した「文学友情の碑」もある。さらに、「広瀬川白く流れたり・・・」(朔太郎「広瀬 川」)や「ふるさとは風に吹かるるわらべ唄・・・」(伊藤信吉「上州望郷」)の碑が散 策する人の気持ちをゆったりとさせてくれる。

 前橋刑務所。¦尾崎士郎の大長篇小説『人生劇場』。主人公の一人飛車角が傷害殺人罪で 七年の刑を受け、はじめ市ヶ谷刑務所、それから移されたのがこの刑務所。両毛線の線路 南側数百メートル、平成大橋(前述二七〇歩)の南東角に独特の塀構えを見せている。 「・・・高い煉瓦塀を越えて、赤城の連峰がそびえている。・・・大利根の波の音が次第 にゆるやかなせせらぎに一変するのだ。・・・利根の川波が次第に険しさを加えて、また しても冬のような夜になる。・・・」(「残侠篇」(上)¦宿馬、(下)¦七年後)。

 (二)中流
田山花袋。渡良瀬川と利根川との中間の舘林の生まれ。昨年(‘〇九年) は、花袋の代表作『田舎教師』刊行百年目、作者・作品に係わりのある各地で各種の記念 展が行われた。物語のなかの幾場面かを読み返す。「四里の道は長かった。その間に青縞 の市の立つ羽生の町があった。・・・」(一章)。行田から羽生まで、武蔵大橋(八五〇 歩)~昭和橋(八三〇歩)~東武伊勢崎線鉄橋(歩行不可)の南側三~四キロを通る道で ある。

 「熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒(みろく)と段々に活気がなくなって行 く」(十三章)。この弥勒は新人教師清三が勤めた小学校の所在地。今は東北自動車道羽 生SAのすぐ東側である。小学校跡には「田舎教師」像、像の下には小説中の一文を刻ん だ碑がある。「絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ/運命に 従ふものを勇者といふ」(四十章)。田舎教師の像から北へ二キロ、東北自動車道の利根 川橋(歩行不可)のたもと、発戸(ほと)の松原は清三が教え子の生徒をつれて遊びに行 った所。堤防の中段には「松原遠く日は暮れて/利根のながれはゆるやかに・・・」(二 十九章)の碑が西日を受けて光っている。

 下総皖一(しもおさかんいち)。埼玉県大利根町出身の作曲家・音楽教育家。「たなば たさま」「花火」「野菊」等の曲を作った人。日本の「和声学」の神様といわれており、 その作曲になる校歌は四〇〇~五〇〇曲、全国四〇の都道府県の学校で歌われている由。 埼玉大橋(北川辺~大利根・佐波間、一四三〇歩)の右岸、利根の流れの彼方に筑波の遠 景を望む広場に「童謡のふる里おおとね」展示室があって、下総(しもおさ)先生の作っ た美しいメロディが鳴っている。

 再び『田舎教師』。海から一三二・五キロの地点で渡良瀬川が利根川に合流するが、そ の東方約三キロに旧中田宿がある。小学校の教師として悶々と日々を暮らす清三は、ある 夜弥勒から二里の土手道を歩き、それから渡し舟で中田に往った。やがて張見世の女性と なじみの関係に陥って了う。「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまこ とに阪東太郎の名にそむかぬほど大河の趣をなしていた。」(三十一章)。「水を越して 響いて来る弦歌の音が清三の胸をそぞろに波たたせた。・・・右から二番目の女は静枝と 呼ばれた。・・・眉と眉との遠いのが、何処となく美穂子を偲ばせるような処がある。」 (三十一章)。利根川の風景、川沿いの風物、人物の表情と心情、花袋の描写は細かくて 濃い。

 なお、この中田宿は現在古河市中田町。宇都宮線栗橋駅から「静御前の墓」、「 利根川 資料館」、利根川橋(九〇〇歩丁度)を経て国道四号=日光街道を西に降りたところにあ り、この間徒歩約四〇分の道のりである。

 (三)下流
長塚節(たかし)。茨城県岡田郡国生(こくしょう)村¦現在の常総市石 下町¦に生まれた。坂東と野田との間に架かる芽吹(めぶき)大橋(六九〇歩)のやや下 手で鬼怒川は利根川に合流する。この鬼怒川を約二十キロ遡ったあたり、「凡ての樹木や ・・・凡ての雑草が爪立ちして只空へ空へと温かな光を求めてやまぬ。土がそれを凝然と 曳きとめて放さない。それで一切の草木は土と直角の度を保っている、・・・鬼怒川の西 岸一部の地にもこうして春は来りかつ推移した。・・・」(『土』六章)。関東鉄道石下 駅から徒歩十分の常総市地域交流センター、入口横には歌碑、建物内には長塚節展示室が 設けられている。

 柳田(やなぎた)國男。「・・・十日あまり東京の兄の下宿にいて、そこから船橋¦印 旛沼のほとりを人力車に揺られていった。・・・十三歳で茨城県布川(ふかわ)の長兄の 許に身を寄せた。・・・あの町は古い町で、いまは利根川の改修工事でなくなろうとして いるそうだが、・・・」(『故郷七十年』)¦「布川のこと」の章ほか)。成田線布佐駅か ら栄橋(三六〇歩、この橋の辺りだけが川原がなくて岸の下が直接水面になっているた め川幅即ち橋の長さが、ほかの橋の半分くらいしかない)を渡り約三〇分、北相馬郡利 根町布川に着く。小貝川と利根川との合流点から東へ三キロの山の陰、柳田が「第二の故 郷」と懐かしんだ地に、柳田國男記念公苑がある。そこの資料室で学んだこと¦國男は十 三歳から約三年間をここで過ごしたが、病弱という理由から長兄の方針で学校には行かず に、裸で野山をかけめぐる一方で、寝泊まりさせてもらった旧家の土蔵にある万巻の書物 を読みあさった。そして十八歳のとき東京の第一高等中学校(旧制一高の前身)に合格し た¦余人の及ばぬ天才であったのだ。

 田端義夫。流行歌手。昭和十四年(一九三九年)発表されたバタやんの名曲「大利根月 夜」の歌謡碑が、佐原の街中、小野川へりの小公園にある。「あれをご覧と指差す方に/ 利根の流れをながれ月・・・。」小野川が利根川に流れ込む地点の二キロ上流に水郷大橋 (六九〇歩)、渡った先は潮来水郷に至る。

 (四)河口
国木田独歩。意外に感じられるが、銚子の生まれ。その由縁から、銚子に は独歩の碑が二基ある。一つは銚子電鉄海鹿島(あしかじま)駅から海へ向かって五分ほ ど歩いたところに「山林に自由存す」の碑。もう一つは、独歩百年忌記念事業として、二 〇〇八年六月に銚子駅前に建てられた詩碑。「夏の波は高く/冬の波は低し/土用七月の 波/これを/犬吠岬に見る/その壮観/未だ忘るる能はず」(「病床録」より)。ドナルド・ キーン氏の英訳文が添えられている。

 竹久夢二。犬吠岬は夢二と、千葉県成田在の長谷川カタとが知り合った地。その悲恋を うたった「宵待草」の碑が、独歩「山林に」の碑から東へ七~八分の松林に立っている。 「まてど暮せど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ・・・」、夢二の胸像レリーフがさびしそ うに見える。

 最後に佐藤春夫。明治四十四年(一九一一年)与謝野門下一同と銚子に遊び、雑誌「ス バル」に発表したのが「犬吠岬旅情のうた」。燈台手前左手の岡の上に碑があり、「ここ に来て/をみなにならひ/名も知らぬ草花をつむ/みづからの影踏むわれは/仰がねば/ 燈台の高きを知らず・・・」。  利根川に沿って足を運んできた(文学)の旅はここで終わる。利根川の(文学)は水の ひびき・水のにおいが一杯である。

5. 橋の終わりは..........

 犬吠岬燈台の近辺が利根川の河口である。水上から延々二六〇キロメートル、殿(しん がり)の橋は銚子~波崎間の銚子大橋(一三七〇歩)。この橋を渡ったのは二〇〇八年七 月。橋が長い、ほとんど海の上を歩いている、歩道がない、大型トラックがビュンビュン 飛ばす、たいへん怖い思いの渡橋であった。しかも行って戻っての往復であった。

 現橋の二〇メートル上手に新しい橋梁を架け替える工事中で、二〇一一年完成予定。今 度は片側に幅三・五メートルの歩道が付いて歩き易くなる。でき上ったらもう一度渡っ てみるつもり。というのは今の橋の公表橋長一二〇三メートル、これを歩数一三七〇で、 割ると一歩あたり歩幅八八センチ、私の平均歩幅七十八センチよりかなり大きめでどうに も合点がいかない。歩数は往路・復路で二度数えたもので、間違いはないはず。橋長の起 終点を再確認の必要ありと考えている。

 それに、伊能先生の歩幅六十九センチを超えること二〇センチというのは、礼を失する こと甚だしい。その辺の仁義を切りたい。  私の利根川“橋巡り”、橋の終わりは銚子大橋である。「坂東太郎さん」の旅の終わり は太平洋の逆巻く白い怒涛である。

注。(A)文中の地名は原則として従来の呼び名であり、「平成大合併」後の新しい表示 はほとんど使っていない。(B)数多くの支流のなかで渡良瀬川だけを個別に扱ったのは 「足尾鉱毒事件」であまりにも有名、かつ川の長さを越えた“風格”が感じられるから。 (C)「利根」を冠した地名や橋名があちこちにあり過ぎて、どこが本家なのか判別がつ かない¦よって説明は省略。                      (おわり)