◆◇◆『死者の書』―折口信夫◆◇◆


左から 折口信夫、折口信夫生誕の地、当麻寺、
2017年10月
寄稿 佐々木 行

一.  折口信夫

 おりくちしのぶ。法名、歌人・詩人としての名は、「釋迢空(しゃくちょうくう)」。歌人、国文学者、民俗学者。一八八七年~一九五三年。大阪生まれ。國學院大學国文科卒業。國學院大學教授、のち慶應義塾大学教授。「アララギ」「日光」同人。  歌集『海やまのあひだ』ほか、詩集『古代感愛集』ほか、研究著書『古代研究』―民俗学篇・国文学篇―ほか、小説『死者の書』ほか。  (吉田精一「日本文学鑑賞辞典 近代編」、「釈迢空歌集」(岩波文庫)、富岡多恵子「釋迢空ノート」等による。」

二.  小説『死者の書』

 この小説は、一九三九年初出、一九四三年増補改訂、一九四八~四九年続篇執筆(未完中絶)。二上山と当麻寺を舞台に、死者・大津皇子(おおつのみこ)と生者・藤原南家の横佩郎女(よこはきのいらつめ)を中心に据えた幻想的歴史小説とされている。
 それほど長い作品ではなく、「続篇」を除いた「本篇全二十章」の本文は、中央公論社全集旧版一三〇頁、同新版一一〇頁、中公文庫旧版一五〇頁、岩波文庫新版一四五頁程度の長さである。但し、万葉時代の耳慣れぬ人名と官職名の多さ、古語を交えた難しい言い回し、出来事を示す時間の「昔」と「今」の交錯、等が作用して、読みやすくはない。
 郎女は奈良の家に在って「称賛浄土経」の写経に励んでいるうちに、次第に日常の生活が疎ましくなってくる。死から蘇った大津皇子の霊魂が「こうこう。お出でなされ。藤原南家郎女の御魂」と呼ぶ声に誘い出され、邸を出てさまよい歩き、当麻寺に迷い込む。横佩家(よこはきけ)では、郎女が突然いなくなってしまい、神隠しに遭ったと大騒ぎ。女人禁制の当麻寺では、迷い込んできた女人が、南家(なんけ)の姫君であると知り、どう扱ってよいのかと、右往左往。と言ったゆくたてを経て、郎女は寺の一隅に住み着き、昼は二上山に皇子の俤を求め、夜は皇子の足音を聞くという夢幻状態の明け暮れ。最後は、尼僧に姿を変えた阿弥陀如来と観音菩薩に手ほどきを受けて、蓮の糸で曼陀羅を織り上げる。美しく彩色された曼陀羅の絵模様は「其は幾人の人々が同時に見た白日夢のたぐひかも知れぬ」と物語は終わる。
 作中で、二上山と当麻寺は次のように現れてくる。「まともに、寺を圧してつき立ってゐるのは、二上山(フタカミヤマ)である」(六章)。「姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳えて居た」(七章)。「近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖の幾重も重なった上に、二上の男嶽(ヲノカミ)の頂が、赤い夕日に染まって立ってゐる」(十二章)。「山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が昼の明りに輝いてゐた。ここからよく見える二上の頂は赤々と夕映えてゐる」(十七章)。等々。
(註) 「まんだら」には「曼荼羅」「漫荼羅」「曼陀羅」と三様の書き方があり、『死者の書』では「曼陀羅」と書き表されている。
三.  二上山、当麻寺     奈良県葛城市

(一) 二上山(にじょうさん、ふたかみやま)

 奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町との間にあるトロイデ火山。雄岳(おだけ、ヲノカミ)、標高五四〇メートル(或いは五一七メートル)、雌岳(めだけ、メノカミ)、標高四七四メートル(又は四六八メートル)と、二つの山頂を持つ。
 登山・下山の最寄り駅は近鉄南大阪線の二上山駅、二上神社口駅、当麻寺駅と順番に並んだ三つの駅。前の二つの駅から山頂まで徒歩およそ一時間三〇分。当麻寺駅からは約二時間。山一帯は「金剛生駒紀泉国定公園」の一部をなし、手軽なハイキングコースとなっている。私は二〇一二年の春に二度登っており、一度目は二上神社口駅から、二度目は二上山駅から歩いた。二度目のときは四月の半ば前、全山が満開の桜で覆われていた。
 雄岳の北端には大津皇子の墓所があり、宮内庁の管轄。柵に囲われた小さな林、入り口には鳥居と「大津皇子 二上山墓」と彫られた石柱が有る。(もう一つ山中の或る古墳にも墓があって、それが本当の墓所だとする説もある。)大津皇子に因んだ歌としては、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ「うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山(フタカミヤマ)を 弟世(いろせ)とあが見む」(万葉集 巻二)が名高い。
 雌岳の展望台から見下ろす奈良盆地、三輪山、畝傍・耳成・天香久の大和三山のたたずまいは穏やか。雌岳山頂に歌碑一基あり、「大坂を わが越えくれば 二上に 黄葉(もみじば)流れ 時雨降りつつ」(万葉集 巻十、作者不詳)。そして雄岳から雌岳へ渡る途中では大阪平野と大阪湾のゆったりとした広がりが遠望できる。
 下りの一度目は雌岳から西へ折れ、大阪側の竹内街道へ下り東進して当麻寺へ、二度目は山頂から当麻寺への順路に従いお寺へというコースをとった。後述の如く、当麻寺の拝観・見学にはかなりの時間がかかるので、先ず二上山に上り、次にお寺を訪ねるほうがゆっくりとした行程のように思われる
。 (二) 當麻寺(当麻寺)

「當麻(当麻)」(以下、「当麻」と表す)には少なくとも三通りの読み方が出てくる。「たいま」―現在の一般的な呼び方、「たぎま」―万葉期・奈良朝の頃の村名・地名・人名。「たえま」―中将姫と当麻曼荼羅とのことを語る能・謡曲の曲名。この地を訪れて地元の人と話をしていて、「たえま」という言い方に何度か出会った。
 当麻寺(たいまでら)―寺名の表記は「當麻寺」と旧字体の「當」が使われていることが多い―は、近鉄南大阪線当麻寺駅から約一キロメートルのところにある。二上山の登山・下山ルートの一つはこのお寺の横を自然に通るようになっている。
 私の当麻寺拝観は合計で三回。第一回は二〇〇五年四月、目的は「浄土の世界が目前に広がる」と紹介されている「浄土庭園」を見るため。この日は当麻寺のあとにあちこち回る忙しい日程であった故か、朝の八時前に境内に入っている。本堂を通り過ぎて、東塔と西塔の間を抜け、奥の院へまっしぐら。借景たる麻呂子山、極楽の池を模した宝池、石彫りのくりから龍、阿弥陀如来像を中心とする数多くの石仏、全体を飾る花壇、スロープの上の別世界。「なるほど此れが浄土庭園か」と分かったような気分になって拝観終了。所要時間は三十分程、肝心の「中将姫・曼荼羅」関係は無視という荒っぽい当麻寺参詣であった。
 第二回と第三回のお参りは二〇一二年の春。二上山から順路で降りてきて、隣の石光寺と併せて、両回とも二時間を掛けてユックリと見学した。
 先ずは、中将姫像。この女人は、寺内の一堂に閉じ籠もって「当麻曼荼羅」を織り上げたとされる姫君。本堂=まんだら堂横の蓮池のなかに、尼僧姿で頭巾をかぶり、両手を合掌している形の立像。台座を含めると高さ四~五メートル、よく目立つ。その説明の要約、「中将姫は右大臣藤原豊成公の娘……継母に捨てられ……当麻寺に入り……十七歳で仏門に入り……蓮糸を一夜にして一丈五尺(約四メートル)の蓮糸曼荼羅に織上げ……二十九歳の春極楽浄土へ向かわれた」。もう一つの説明「……十五歳のとき三位中将の位につき、それ以降中将姫と呼ばれるようになった。……」
 天平宝字七年(七六三年聖武天皇在位時)の作と伝えられる「蓮糸曼荼羅」はこのお寺の本尊であり国宝とされている。その代わりに、文亀年間(一五〇〇年頃、室町時代)に「転写」された「文亀曼荼羅」が本堂=まんだら堂の須弥壇に飾られていて、参詣人はそれを仰ぎ拝む形になる。
 曼荼羅の絵様・絵図は、中央に阿弥陀如来が座り、周囲をおおぜいの尊者が取り囲み、背景には宮殿と楼閣がぎっしりというもの。中央公論社の全集新版第二十七巻『死者の書』の十七章、中公文庫新版の同じく十七章に、この「曼荼羅」図の写真が載っている
。  須弥壇の横手に「中将姫二十九歳像(伝 御自作)」が安置されているので、併せて拝む。頭巾なし、黒衣を纏い、合掌した両手手首には二連の数珠、やわらかく閉じた眼、優しい笑顔の座像である。  まんだら堂の次に中之坊に入る。ここでは、大和三名園の一つとされる「香藕園(こうぐうえん)」、中将姫が剃髪した受戒堂、「中将姫誓いの石」―一心に仏道を志す中将姫の強い信念により不思議にも石に足跡が付いたという、等を見た。案内人の説明は『死者の書』の幾つかの箇所についてまで言及する密度のあるもの、おかげで一味濃い拝観となった。
 一旦当麻寺を出て、北方五百メートルの石光寺に向かう。途中に地蔵堂から入って行く墓地があり、一番奥で周囲から一段高くなった五メートル四方の敷地に、高さ三メートル程の五輪塔、その傍らに石盤を十四~五枚積み重ね、頂部を擬宝珠形にした五メートルくらいの塔、この組み合わせが中将姫の墓碑であった。
 石光寺(せっこうじ)・別名「染め寺(そめでら)」、山門前の石柱の文字を読むと「中将姫旧跡 染の井・糸掛けの桜」とある。お寺の縁起を引用すると、「聖武天皇の時(七五〇~七六〇年頃)に「蓮糸曼荼羅菩薩」を織った中将姫が、この寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この井戸を「染の井」、桜を「糸掛けの桜」、寺を「染寺」という」のだそうである。  井戸は一辺三~四メートルの方形に囲われた区画内、屋根付きの堂々とした建屋の中にあり、傍らには背丈一五〇センチくらいの白い石像の「中将姫」が立っている。建屋の横に生えている桜の木が「糸掛け桜」何代目かの子孫ということか。
 石光寺はぼたんの花で知られる「関西花の寺霊場第二十番」である。春ぼたんは四月中旬から五月上旬が見頃、私が訪ねたのは二度とも四月の初頭であったため、時期尚早で見られず。かわりに、シャクヤクの花の間に散在する与謝野鉄幹・晶子夫妻の詩碑と歌碑、折口信夫歌碑、その他俳人幾人かの句碑を鑑賞した次第、それぞれの碑文の詳細は省略。
 中将姫と曼荼羅に係わる伝説は一区切りとして、「山越阿弥陀如来」のある極楽院を門前参詣で済ませて、駅へ向かう。お寺と当麻寺駅との中間地点、「観光休憩所」のある四つ角に一基の歌碑が見える。「現身(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)とあが見む 大友皇女」、作者名が異なり、詞の書き方がやや違うようにみえるが、二上山の章で触れた大津皇子の姉・大伯皇女 (おおくのひめみこ)の歌である。
(註 一) 「まんだら」には「曼荼羅」「漫荼羅」「曼陀羅」と三様の書き方があり、この当麻寺では「曼荼羅」という表記が使われている。
(註 二) 当麻寺の中之坊で買い求めた小冊子『中将姫物語 蓮のしおり』はこの中之坊住職・松村実秀師が発行人となっている。はしがき+本文二十章、全七十五頁、カラー写真六枚と挿絵三十九枚入り。横佩(よこはぎ)右大臣家の内幕、中将姫生誕から入寂までの経緯、蓮糸から曼荼羅織上げの過程を物語風に述べたもの。