◆◇◆宇野千代の『おはん』の世界 ― 岩国を訪ねました◆◇◆

宇野千代 岩国 おはん 市営バス
2017年9月
寄稿 佐々木 行

『おはん』ですか。初めて読んだときから数えてかれこれ五遍ぐらいは読んだことになりますね。ああ、岩国の町ですか。あの錦帯橋までは二度も行っていたんですよ。でも、橋の向こう側へ降りたことはなかったですね。 そして駅から橋までバスで往復しただけ、何にも歩いていないんですね。 せめて、「臥龍橋(がりょうばし)」や「龍江淵(りゅうこうぶち)」ぐらいは知っておきたいし、それに、町や通りのひとつふたつは歩いてみたいと思っていました。

それで改めて岩国へ行きました。丁度、四国の高松へ行く用事があって、その帰り道に廻ったんです。広島に泊まって、朝早く始発から二本目の電車に乗って、岩国へ着いたのが、まだ六時半でした。 駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買ってそんなに待たずにバスが動いて、七時ちょっと過ぎには錦帯橋に着いてしまいました。いいえ、早すぎて困るなんてことはなかったですよ。結構歩いている人もいました。 ほんとうは橋を渡るとき、通行料金を払うきまりなんですって。しかし、早朝は管理人さんがきていないので、だれも払っていないんです。それで、私もその真似をしてそのままスイーと通って、まあ「早起きは三文の得」ということ。 少し前に掛け替え工事が終わったばかりだそうで、橋はぴかぴか、朝日に輝いていました。 それまでの二回とも、橋の上の五つの「そっくりかえり」を往復するだけで、きちんと橋の向こうへ降りたのは初めてでした。

そこで、いきなり出くわしたのが、「宇野千代顕彰碑」という立派な石碑です。 「幸福は 幸福を 呼ぶ」と千代さんの言葉が三行書きに彫られてあり、岩国ライオンズクラブ建立となっていました。ここで持参のおにぎりを食べて朝食を済ませました。 そこから紅葉谷公園というところへ向かい、その公園の右手の広場で、「おはん文学碑」に出会いました。『おはん』の一節、「去年の夏臥龍橋の上ではじめておはんと会うてからこの幾月、大名小路と鍛冶屋町と、二つの家を行きつ戻りつしてたよに、 今日からは川西の奥に、新しうにまた一つ家がでけたのやと、何食はぬ気でゐてたのでござります」が刻まれておりました。(これは、第十一章の終わりの箇所です。)読んでいるとき、蚊に刺されてしまいました、顔やら手やら。

次から次へと訪ねる場所があります。臥龍橋と龍江淵は予定していましたが、大名小路、鍛冶屋町、川西と、さきほどの碑文から新顔が出てきました。やみくもに歩いて尋ねあてられるかなア、そんな不安におそわれて案内図をマジメに見ました。とりあえず、 錦川のへりを歩き出しました。龍江淵は道幅が上の山側の崖に押されて細くなり、川ぎりぎりの縁を通っているところ、道の下は川側の崖、深い淵、水がド、ド、ドと流れているんです。おはんと加納屋との間の子、 「悟(さとる)」が川に転げ落ちた場所はこの松のあたりかな、と思わせる危ない道筋でした。

そこを通り抜けると、左手に橋があり、「臥龍橋」の看板です。同時に橋の反対側に「川西」という町名が見えました。臥龍橋は渡らず、道なりに進むと大きなお寺がありまして、 「教蓮寺・宇野千代墓所」という立て札が立っていました。本堂のすぐ横に高さ三メートルほどの大きなお墓があります。「宇野千代之墓、河盛好蔵書、平成八年六月十日亡、 謙恕院釈尼千瑛(けんじょいん しゃくに せんえい?)、行年九十八歳」と書かれていました。  お寺の外に「宇野千代生家まで四〇〇メートル」という案内柱が立っています。やがて道の左側に「宇野千代生家」の標識が見えました。千代さんの「川西の家」に着いたのです。

朝の八時四十分ころだったと思います。横長で、平屋建て、瓦ぶき、白壁、黒ずんだ格子の家でした。玄関の格子戸の脇に、「自分の幸福も 人の幸福も同じように念願する境地まで  歩いて行きたい 宇野千代」という言葉が三行書きになった木の標柱が建っていました。添え書きは「宇野千代幸福の言葉 撰 藤江淳子」となっていました。  と見こう見しているうちに、横手の通用門のあたりに人の声がしましたので、近づいてみますと、「見学にお見えですか。時間前ですけれども、お入りください。」 と声をかけられました。生家を管理している人たちでした。この日は土曜日で、開館日にあたっていて、開館準備を始めるところだったのです。本来の開館時刻は午前十時、 その一時間もまえだったのに気持ちよく入れていただきました。・これがうすずみの桜の木で樹齢二十七年か八年、・このベンチは先(せん)までの錦帯橋の橋桁の板、年季もんですよ、 来週、岩国で「宇野千代まつり」があり、一千人のひとがぼんぼりに明かりをつけて錦帯橋を渡ります。……と矢継ぎ早の説明をしてくださいました。  「そのお祭りに合わせて、東京から淡墨(うすずみ)の桜をデザインしたきものを取り寄せましたんで、それを今から広げます。ぜひ見てゆきなさい。」と願ってもない親切なお誘い。 わたしもそのお仕事をただ見ているのは心苦しいので、衣桁(いこう)の組み立てを手伝いましてね。広げられたきものは、ねずみ色とむらさき色と薄い紅色とを使って、桜の紋様が一面に、それはそれはきれいなきものでした。  そのかたがたのご好意に何度もお礼を述べて、千代さんの生家を離れ臥龍橋の方へ歩きました。生家で頂戴したガイドマップによれば、「水西書院」もすぐ近くにある筈ですが、 それは割愛して橋を渡り、鍛冶屋町と大名小路に入りました。『おはん』のなかで加納屋が愛人のおかよと暮らしていた家、そして愛人の目を避けて正妻のおはんと会う古手屋の店、それがひょいと浮かびあがってきそうな、 静かな通りでした。「半月楼」もありました。

 で、岩国へ行ったのはいつのことというお尋ねですか。ええと、今から十四~五年ぐらい前(二〇〇三年)九月のあたまでした。「宇野千代まつり」はいつですかって。九月の十四日となっていましたね。 そうなんです。もう一週間遅く行っていたら、お祭りにあたっていたんです。惜しいことをしましたねって。いやあ、そうは思っていませんね。あれはあれで良かったんです。 落ちついている頃合いで、親切な案内をしてもらい、ゆっくり見学できましたから。

 もう一つ、ついでのお話をしましょうか。千代さんの生家を訪ねたと同じ月(九月)のなかばに、つまり、岩国から帰ってきた直後ですよ、映画『おはん』を観ましたね。全く偶然の符合と云いましょうか。 昭和五十九年作の東宝映画です。役者は吉永小百合のおはん、石坂浩二の加納屋、大原麗子のおかよ、といった面々でした。吉永の「堪え忍ぶ女」、表情もしぐさも良かったし、 大原の「芸妓あがりのきつい女」、石坂の「煮え切らぬ男」。二人の女性と一人の男の葛藤、心理の動きが細かに出ていて、いい映画でした。市川崑監督の傑作の一つだと思います。  あの映画のおしまいのところで、加納屋がおはんからの手紙を声を出して読む場面、あそこでは、言葉が生きて迫ってくる、おはんの嘆きが押し寄せてくる、そう実感しましたね。家に帰って、 原作の文章、読み直しました。書いてみましょう。  「とり急ぎ、しるしあげます。(略)思へばこの私ほど、仕合わせのよいものはないやろと思うてるのでござります。(略)どこそこと行くさきのあては申しあげませねど、 私ひとり朝夕の口すぎして行きますくらゐ、何とかなるよに思ひますけに、どうぞ案じて下さりますな。(略)申しあげたきことは海山ござりますけれど、心せくままに筆をおきます。(略)おはんより 旦那さままゐる」。  第十三章(終章)結びの直前にあります。声に出して読みますと、おはんの心根に引き込まれます。宇野千代さんの語りの極地とでも云うのでしょうね。  (了)