火焔樹の下で (No- 14)    

2005年5月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 5」「No. 6」「No. 7」「No. 8」 「No. 9」「No. 10」「No. 11」「No. 12」 「No. 13」


(ジャカルタ到着) 2005年3月4日金曜日、我々の飛行機は定刻より少し遅れて午後8時頃ジャカルタ空港に到着した。いつのまにか窓ガラスに雨が当っていた。 飛行機が地上を走り続ける間、私はポンタスの顔を見ながら説明を多分呆れた顔で聞いていた。私が韓国企業に支払う代金がなぜポンタスに回ってくるのか。 「実はMr.佐藤と組む前から、その会社と私は販売代理人契約を結び、16ヶ月間ある得意先に販売しましたが、彼らは未だに1度も販売手数料を払ってくれていません。
理由ですか?よく解りません。」「今回その契約書と販売額と手数料の明細表を持って来ました。もし今回その金額を彼らが払ってくれないのなら、私は彼等に言ってこのお金を取り上げます。」ポンタスとは1年弱の付き合いで彼の言葉は信じられると直感しながら、私は今になってそれを言うポンタスの気持ちを測ることが出来なかった。「ポンタス!君は最初にどうしてそのことを私に言わなかったのだ?そんな企業に会っても意味がないじゃない。」 ポンタスも必死で弁明してきた。「Mr.佐藤、これは元々Mr.佐藤には関係の無い話ですから、私と彼らでずうっと話し合って来ました。最初は全く相手にされずでしたが、でも最近トップの韓国人が変わってから、向うから話し合いたいと連絡がある様になりました。」「多分私が日本人と組んでBatamで営業を再構築したと伝えたからです。ともかく価格が安く、品質も日本企業に供給出来るのですから問題無いと考えています。私にとってもこの企業の製品をMr佐藤と組んでやるのが1番良い方法だと思っています」。「しかしそれはあくまでもこれからの話で、過去の件を終わりには出来ません。今回は絶好の機会だと思っています。ただ今度のトップ韓国人は本当に事実を知らない様子で、それで韓国の親会社に色々相談をしている様ですが、まだ進捗がありません。」私「一体、幾らになるのその金額は?」「S$12,000位です」「その金、今誰が持っているの?」「解りませんが、ジャカルタの前責任者の韓国人が全てを知っているはずです。今はその人は会社を辞め行方不明と言っています。」「持ち逃げか?」「そうでしょ。でも彼らには必ず払ってもらいます。だから私の強い意志を伝えるため、この金は私が彼らから頂きます。」 ビールでも飲みたい気持ちになっていった。 今の私とポンタスの関係は第3者から見たとすると明らかに1つの企業体での2人に見える。事実我々もその様に振舞っている。
ところが我々はポンタスの過去債権債務を一切引き受けていない。だから我々が払うべき金を我々の男が別の理由で取り上げてしまったとしたら、どう考えても我が企業体は債務を履行していない事になるではないか。もし相手がその事を了解したら支払いは完結した事になるのだろうが、それでも最低書面での合意は必要だろう。誰が何語で書くのだろうか?来月もS$2500位の支払いがあったなあ。それもポンタスは取り上げるのだろうか。 これから4人の男が会う。日本人(私)とインドネシア人2名と韓国人1名である。問題は使える言語である。日本人は日本語と英語 ポンタスはインドネシア語と英語 向うのインドネシア人はインドネシア語となぜだか日本語 韓国人は韓国語とインドネシア語となるらしい。 すると1番不自由させられそうなのがこの日本人である。
そこで3人がインドネシア語で「払え!」「待ってくれ!」「じゃあこの金俺が取る!」「それは困る!」などの修羅場に、私が「インドネシアでは違うかもしれないが、こんな問題を日本で商法的に考えた場合の解決策としは、ハイ、インドネシア語に直して!」などと言いたくない。飛行機のドアーから空港ターミナルの中に入りながら「ポンタス 君にまかせるから、どうでもいいから今夜中に決めて明日には持ち越さないでくれ。」「OK ボス」気楽な返事が返ってきた。人の流に合わせて出口に向って歩く。しかしジャカルタ国内便の空港ターミナルビルの廊下は広くて長いのに驚かされた。 ポンタスの、あるいはインドネシア人の特徴を思った。ポンタスは見たところ未だ7割は相手を信頼し穏やかな解決に望みを持っている感じであった。彼らの民族的資質とは我々には少なくなった気配りと忍耐と楽天的思考にあるのではと。今様の日本は確かにアメリカ的にガサツか率直さかで「払え!」とか「告訴する!」などと言うが、インドネシア人は言えそうも無い。だから逆に内在化しストレス化しプッツンと切れるのではないか?ポンタスの問題が私の心の中でイスラム インドネシアのテロの要因にまで広がっていきそうであった。

(宿泊地まで)
荷物を受け取るベルトの前を通り過ぎ扉の向うに出ると、そこはもう屋根だけがあるロビーの外でであった。熱気と共に突然又南半球に来たとの印象が沸きあがって来た。そしてカラフルな服装の群集の中に入り込んでしまった。雷雨がちょうどあがったばかりの様子で、雑踏の向うに広い駐車場が見え所々水溜りが残っていた。ポンタスは早速携帯電話を架けて相手を呼び出す。そして探してくるからちょっとここで待っていてくれと言って姿を消した。 私が始めてジャカルタに来た時もやはり空港には沢山の群集が集まっていた事を思い出した。あの時は国際線のロビーであった。そう!あの時大歓声が起き人々は国旗や色々な旗を振って数人の男達を熱狂的に迎えていたのを思い出してきた。周りに聞くと、どうやらオリンピックのバトミントンでインドネシア建国以来初めての金メダルを取った選手団の凱旋のまさにその瞬間を観ていたのだった。たしかソウルオリンピックの前のオリンピックだったろうから1884年の事のはずであった。オープンカー数台のパレードが空港を離れて行くのを見送った。 今、ジャカルタ空港は初代大統領のスカルノと副大統領の名前を冠した空港名になった。これもスハルト体制がおわり、スカルノの娘が大統領になった時の産物なのだろう。 やがてポンタスが小太りのインドネシア人と一緒に戻って来た「彼の名前はアグウス、簡単でしょ、インドネシア語で8月と同じです。」
そのアグウスはぐちゃぐちゃと何か言った。よく解らないがお互いに名刺を交換した。やがて又彼は又ぐちゃぐちゃと言って1人の痩身の男を紹介した。 男は丁重に日本語で「よくいらっしゃいました。わたくしのなまえはパクともうします。」と言い少しはにかむ様に微笑んだ。社長のパク氏だった。年齢50歳位。それからアグウスとパク氏は車を呼び寄せると言って小雨の中に消えた。 「アグウスは韓国語がしゃべれる様だね」と私、「ノー、彼は韓国語を全く話さないとの事です。」「今盛んにしゃべっていたじゃないの。」
「あれ日本語でしょ?」「ええ!ほんと?全然日本語になってないよ」「アラマー(この言葉は日本語と全く同音同意)これは大変な事になりそうだ。」私とポンタスは顔を見合した。 トヨタ車だがインドネシアだけで生産されている「キジャン」と言う乗用車に乗り空港を出発した。この機種はトヨタの全乗用車で唯一クッションが未だに板ばねと言うインドネシアの悪路対策車。その後部座席にポンタス 私 パク氏の順で座り前は運転手とアグウスである。 ハイウエーを走るので少し狭いが快適な乗り心地であった。
だが車内は沈黙が続いていた。沈黙に疲れ私が「パクさんは日本語をしゃべれますか?」と聞くとアグウスがインドネシア語に直して伝える。パク氏がインドネシア語で何か答える。それをアグウスが日本語で伝えようとするが、全く日本語にならない。聞くことは可能だが日本の文章は無理な様子であった。見かねてポンタスが「さっきの日本語が全てで、後は何も解りません。」と英語で伝える。解ったとパク氏に顔で伝えるとパク氏は「ブラジャ」と一言、これは「勉強(する。した。)」のインドネシア語。そんな具合だから直ぐ会話は終わってしまった。それでも3人はぼそぼそインドネシア語で時々短い会話をしていた。やがて空港を離れて約1時間どうやらジャカルタ市内の中心部を高架の高速道路で通過中であった。時々ネオンサインもあるが大体は暗闇の中に長々と続く平屋から漏れる電灯の明かりと、寂しそうな街灯の点々と続いていた。そんな街の風景を眺めていると、アグウスが「ジャカルタが人の150 いや1500ありますかどです。知ってですかどです。」的なことを言う。「人口1500万人ですか?東京以上だね。」「そうです。」とアグウスが一言、又沈黙。やがて2時間が過ぎジャカルタの反対側の郊外に差し掛かっていた。どうやらジャカルタは素通りして、パク氏の会社の近くまで行くらしい。空腹などとっくに通り越し早くこの車を降りたいとだけ考える。するとパク氏が初めて一言インドネシア語で聞いてきた。ゴルフと言う言葉があった。ポンタスが「ゴルフ好きですか」と訳す。「たしなむ程度です。パク氏は?」と聞くと、大好きで毎週やっているとの言。また沈黙。 更に1時間以上、時刻は夜11時を過ぎた頃、やっと車は高速道路を離れ地道に入った。そして工場や人家や店の間を通り抜け、車1台通るのがやっとの小さな路地に入る。その路地はエビや蟹をあしらった海鮮料理の看板が続き、なぜか男達が道との境を示す垣根の上に点々と座っていた。 車のライトが彼らの顔と姿を次々と照らして行く。
海辺に出たのかと思うが暗くて小さな民家しか解らない。これから何処か海鮮料理店にはいるのかなと思っていると、それも通り過ぎ更に奥手に行くと、平屋のバラックから突然韓国文字の店舗が軒を連ねる一角に入った。ぽつんぽつんと並木があり初めてなのにかつて見た風景の様な気がした。それは細い路地に2階建てコンクリートの家の雰囲気が遠い記憶で1970年代に見たソウル近郊の下町の匂いを感じさせていた。3本の並木がある20m程の直線の道に沿った建物で玄関が竹模様の格子が印象的なレストランの前に停まった。時間は11時半頃であるから真夜中である。 すぐ中から男性が出て来てパク氏と韓国語で話をし、それから我々を丁重に店の中へ案内してくれた。 中は帳場と反対側に横開けのドア―がある部屋があり、我々はその部屋に靴を脱いでから上がった。
私はポンタスに1言「この場で金の件を決めてくれ」というと「アグウスだけが事態をしっているから、まず彼と話してからです。」と答えた。何を遠慮しているのかと思う反面、インドネシア人の交渉事は我々と別な間合いややり方があるのかも知れないと感じた。良くも悪くも。

(パク氏)
パク氏と店主が盛んに打ち合わせをしている。韓国式の料理でもてなしを考えているらしい。料理が決まった後パク氏は「焼酎を飲みますか?」と聞いてきた。うなずくと、やがて透明のビン1本とガラスのぐい飲み4人分が出て来た。でも飲むのはパク氏と私だけで早速透明な韓国焼酎を2人で飲み始めた。料理が配られた。あわびと白身魚の刺身が2枚の大皿で出た、数種類の焼肉に野菜のもりあわせがあり副食の惣菜小鉢がテーブルを埋め尽くした。「私はプサンでエンジンメーカーのエンジニアをしていたのですが、そこを退職しまして去年この会社に入りました。急に電子部品の製造をすることになり面食らっていましたが、半年前急にジャカルタ転勤を命じられて会社辞めようかとまで思ったのですがねえ。」パク氏は古風なイメージで朴訥にしゃべる。全てインドネシア語である。 思い切ってジャカルタに来て見たら、着いたその3日後に前任者が退職して韓国人は唯1人パク氏だけになってしまった。引継ぎも何もあったものではなかったらしい。無論インドネシア語も全く解らない。周りの韓国企業の駐在員に助けてもらって今日までやって来ましたと言う。「直ぐにインドネシア語がしゃべれる様になりました。出来なかったら仕事も生活も出来ませんからね。」ここはパク氏にとって望郷の店なのだろか。 アグウスがじらじらした様にパク氏に何かを訴える。どうもタバコを吸いたい様子で、パク氏は私が吸わないからだめだと言った様子であった。韓国人は目上の前でタバコは吸わない。この場合1番年上の私に気兼ねして吸わないらしい。 私が「どうぞ」と言ったらアグウスとそれにつられポンタスが吸い始めたが、パク氏はそれでも吸わなかった。
私はパク氏にタバコを1本下さいと言い、それでパク氏もやっと1本口にくわえた。火ももらい一服吸い込むと頭がくらくらとして来た。あわててタバコをながめると韓国文字が印刷されていた。 「日本製と味が違いますか?」と聞く、実は1週間ぶりのタバコにめまいを感じたのだが「ちょっと強い味ですね」と答えた。
するとパク氏はインドネシア従業員に何かを聞く。「日本のタバコは置いていませんが、アメリカ製はあるそうですから、何がいいですか?」とたずねた。「いや特にタバコはいりません。」するとパク氏はポンタスに何かを聞く「マルボロ―うんぬん。」と答えている。やがてマルボロ―ライト2箱がテーブルの上に載った。韓国流に吸いたい人はこれを吸って下さいとの意味らしい。このへんがパク氏の古風な面なのだろう。 何時の間にか焼酎のビンは2本目になっていた。時刻はインドネシア時間で午前1時前になっていた。一体この店の閉店時間は何時なのかと聞くと、原則24時間だと言う。客が居る限り門限は無いとの事だった。韓国料理店のほぼ全ては同じ営業方式とのことであった。 私の体内時計は既に午前2時であった。食欲は韓国人に勝てない。インドネシア人2人もとうに満杯で苦しそうであった、終わりにしようと言うと最後にクッパ―が出てからフルーツの皿が出て終わりとなった。 我々全員で同じ車に乗り、その夜の宿泊先に向った。深夜の道をぐるぐる回って15分程でかなり立派なホテルに到着した。大きな敷地を抜けて高いビルの玄関で車を降りた。 パク氏とアグウスはレセプションに行きチェックインをすませ我々に部屋の鍵を渡し、明日朝迎えに来ると伝えて帰っていった。 1人12階の大きく新しい部屋に入ってまっすぐ窓に向った。外は暗い大地の上に大きな鮮明に天の川が流れていた。久し振りに天の川に見とれてカーテンを閉じずにベッドに横たわった。天の川を見ていると睡魔が襲ってきた。明日どうやったら仕事の話が出来るのだろうか。アグウスの日本語は理解不能、パク氏のインドネシア語の6ヶ月ではいかにも心許ない。 翌朝快晴であった。窓の外は豊な緑が見渡す限りに広がっていた。平坦な土地らしくまん丸の地平線であった。
朝8時ポンタスと朝食を取った。「ポンタス君のお金の件はどうなったの?」「まだです。多分今日は話は出来ないかもしれません。」「どうした?」「アグウスがボスに説明するまで待ってくれと言うのです。」「その金はどうするの?」「もって帰るでしょう。多分」ポンタスの口ぶりは相撲で言う最初の仕切り直し様な気がした。 コーヒーハウスを出た所でアグウスと出合った。彼は1人の男を連れていた。その男が私に向って話し掛けてきた。「佐藤さんですか?私はパクさんの友達でチョオアと申します。今日パクさんから頼まれまして打ち合わせの通訳をさせて頂きますので、よろしくお願いします。」と緊張した顔で言った。完璧な日本語であった。 ほっとした。これで今回のジャカルタ出張は無難な旅で終わりそうだ。