縄文住居 『縄文から学ぼう』 『ページ6 氷川神社と縄文 ~ 古層の神を訪ねて その2』 寄稿 : Mr. Tom Ito 『ページ1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ2 縄文と翡翠と三種の神器』 『ページ3 韓国~日本との繋がりを訪ねて』 『ページ4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』 『ページ5 縄文と古層の神を訪ねて その1』 日本の文化には征服した相手を完全に破壊・殲滅する文化はありません。宗教でも従来から存在した自然崇拝、日本古来の宗教を抹殺することなく、仏教と上手く共存共栄しました。その対照的な例はキリスト教伝道師によるマヤ文献の焼却です。血生臭い宗教行事があったマヤ文明はキリスト教徒の目には邪悪な習慣・文化としか見えず、改宗の一環としてマヤ文献を焼却しました。残った文献が少ないためマヤ語の解釈に長い時間かかりました。 争いのない縄文時代一万年間が日本人特有の優しさや寛容な心を作り、渡来の文化と混じり合い今日に至っています。今でも縄文時代に培われた優しさや寛容性は生きています。 筆者が育った「さいたま市」は縄文人の集落が多く存在していた地域で、子供のころ「氷川さま」と呼んでいた神社が縄文・弥生・古墳時代を経て現在まで続く日本人の優しさの原点を探るヒントになるとは想像出来ませんでした。 今回の執筆にあたり、宗教学者の中沢新一氏が書かれた「アースダイバー」が参考になりました。一枚の地図を手がかりに、現代の東京の風景から、 縄文にいたる過去の歴史を読み解くというものです。その地図は「アースダイビング・マップ」と呼び、東京を洪積層と沖積層に塗りわけ、その上に縄文・弥生の遺跡・神社・仏閣の分布を記したものです。この地図を手がかりに、現在の東京の風景が、どのように過去の地形や遺跡と関連付けられているかを中沢氏独特の感性で現在と過去のふしぎな因縁について書かれた本です。 縄文海進があった縄文時代、海面は今より高く、特に埼玉は春日部市や志木市まで海面下にあり、東京も埼玉もリアス式海岸のように小さな半島がいくつも突き出ていました。半島の先端には縄文の遺跡があり、同じ場所に弥生遺跡もあり、その近辺には神社があるのが「アースダイビング・マップ」を見ると分かります。 中沢新一氏によると、人間は昔から先端の部分に深い関心を持っており、古代語で「サッ」と言う音そのものが境界線を意味していた。生きている者たちの世界が死の世界に触れる境界の場所であるとの事です。 縄文集落があった同じ場所に弥生集落が生まれ、そして縄文の祭祀場が神社になりました。別な場所に神社を立てず同じ場所にした理由は三つです。一つは水の心配もなく安全に住める場所であったため縄文人も弥生人もほぼ同じ場所に住んだ。神社も安全な場所に建てた。二つ目の理由は縄文時代の祭祀は弥生時代になっても引き継がれ、やがてそれが神社となりました。 縄文人ほど再生に関心を寄せた人々はおりません。貝塚がそうです。貝を食べ、感謝し、貝塚に食べた貝殻を埋め、再び貝になる事を祈りました。縄文以降の人は縄文人ほど再生に固守しないが、弥生そして古墳時代の人々も再生を願い、縄文の祭祀場にお社を作りました。三つ目の理由は、その場所が精霊を感じる場所だったからです。 小さな神社や摂社末社を入れると神社の数は30万とも言われています。縄文の祭祀の場 所であった貝塚が弥生そして古墳時代に神社の基礎になりました。渡来人と縄文人が融合した出雲族が従来から持っていた信仰も姿を変えて全国に広がりました。 又、怨念を恐れる事から、怨念を鎮める神社が生まれ、時間経過と共に神社が増えて行きます。代表例は菅原道真を祀る神社や、東京大手町にある平将門の塚です。 お稲荷様も農業の神とし信仰されており、三井呉服が三囲稲荷を守護神として祀り、商売繁盛したことが新たなきっかけとなり、多くの稲荷神社ができました。 筆者の家の庭にも権現様とお稲荷さんの祠があり、曽祖父が商売繁盛お願い、庭にお稲荷様を祀ったそうです。このような祠を入れたら、とてつもない数になります。 私達の生活の中に縄文時代に培った習慣・文化が一番深い古層として生きています。埼玉県にある氷川神社の発生から現在までを推察することで、縄文の古層を探る旅に出かけました。 1 大谷場氷川神社 〜 雉子の氷川様・キジの氷川様 大谷場氷川神社のある場所は大宮台地の南端で縄文時代は台地の突き出た半島の先端でした。現在は京浜東北線南浦和駅より徒歩3分のところにあります。 中沢氏の言うように先端の部分に深い関心を持って、生きている者たちの世界が死の世界に触れる境界の場所であった。半島の先端は陸と海との境界で、陸地の世界は現在生活している世界で、 海側は人間が生活することができない別世界。縄文人はここで祭祀を行いました。ただ当時の祭祀は弥生時代や古墳時代のような人間、あるいは擬人化した神を祀る祭祀ではなく、自然に感謝し、命の再生を願い人々が集い祈りを捧げる祭祀でした。 半島の先端からは富士山が見え、富士山崇拝の祭祀も出来る場所でした。 縄文時代 小さな集落に分かれて生活していましたが、集まって作業もしていたました。3つの集落の共同アク抜き施設がこの近くで発見されています。 集まる行事はたくさんあり、当然のように祭祀も特定の場所に集まり行われていました。現在は大谷場氷川神社になっている場所も縄文時代に祭祀が行われた場所でした。色々な祭祀が行われましたが、代表的な祭祀は今で言う盆踊りです。 夏至は昼が最も長い日 で死霊が戻り、死霊を招き、広場にて生きている人間と死霊がウズを巻くように、夜を徹し踊る、盆踊りの原点になった祭祀です。 大宮台地には多くの縄文遺跡があり、大谷場氷川神社の近くに縄文時代前期 の大谷場貝塚あり、少し離れて馬場小室山遺跡があります。 馬場小室山遺跡は縄文時代の早期から晩期まで、各時期にわたって生活が営まれました。後期と晩期には「安行式(あんぎょうしき)」と呼ばれる土器をはじめ特徴的な文化が形成されました。 この遺跡からユニークな人面画土器が出土しています。小さな男性を表した土偶と女性を表した土偶が土器に張り付けられています。 子供が授かることを祈って、この土器を作った? 夫婦の円満を願って? 何か心温まる縄文人の感性の豊かさを感じます。 縄文祭祀の場所は弥生そして古墳時代と引き継がれます。縄文時代に培った感性も引き継がれます。 2 氷川神社とアラハバキ 大宮駅から歩いて10分のところにある大宮氷川神社は荒川流域にある約200の氷川神社の総本社です。氷川神社がある場所は大宮台地の中でも高くなっている窪地です。縄文時代後期や晩期の集落では自然の窪地を利用して周囲に土手を巡らす「環状盛土」の中心で祭祀をしていた。 6000年前から海退が始まり、無数の沼が生まれました。見沼もその一つで、上から見ると龍のような形をしており、徳川時代になって治水工事が進み現在の形になりました。 見沼は江戸の初期まで氷川神社に接しており、見沼の水神を祀る神社でした。 水神とか龍は渡来から来たもので、縄文と直接関係がある神社ではありませが、氷川神社に「門客人神社」があります。この「門客人神社」アラハバキ神が古代史を解く鍵になる神です。 門客神とは「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た神々と立場が逆転し摂社として祀られます。「門客人」とかいて「あらはばき」と読みます。 アラハバキ神とは何か? 不明です。柳田國男でさえ「神名・由来ともに不明である」と言っている不思議な神です。次がアラハバキ神に関する代表的な見解です。 ・縄文の神? ・物部の神? ・アラビアから来た神? ・.インドからクナト神と来た女性の神で、クナト神は地蔵に、アラハバキは弁才天に変わった? ・ハバキはすねに巻きつける脛巾(きゃはん)。旅の神? ・天孫族が渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、すなわち地主神? 「縄文と古層の神を訪ねて その1 」にて述べたように、出雲地方は早くから縄文人と渡来人が融合し渡来の文化を基に独自の文化を形成しました。青谷上地遺跡から出た男性の骨4点中3点が縄文系のハプログループです。縄文の文化の上に渡来文化が築かれた出雲族の祈りの象徴が「アラハバキ」です。アラハバキは縄文人には再生の象徴的あり、出雲族には自然災害から守ってくれる神であり、願い事や祈りをする神です。 古墳時代に出雲族の神門氏が出雲地方から大宮台地に移り住み、当然の如くアラハバキ神を祀る祭祀場を縄文の祭祀場跡地に作りました。出雲は出雲氏と神門氏が率いており、その配下に約300の首長がおり、とても統率が取れた国とは言い難い地域でした。 一方 大和族は強力なリーダーが率いており、軍事力を背景に出雲に国譲りを強要しました。大国主の子供で国譲りに賛成した事代主が出雲氏で、反対し諏訪に逃げた建御名方が神門氏であったと推察します。 関東には出雲神門氏以外も多くの勢力が入ってきます。埼玉古墳群に象徴されるように大きな力を持った豪族が生まれます。やがて5世紀にはワカタケル(雄略天皇)が九州から関東まで大和王権の勢力下に入れました。 国譲りで出雲から神門氏一族が諏訪にも移動し、モレヤを代表とする民と戦うが、モレヤにも役目を与えて共存共栄します。従来からの精霊はミシャグジ神で諏訪を中心として長野県全域にシャグジ神を祀る祭祀があります。 アラハバキと同じように、どんな神かは色々な説がある神です。 氷川神社や、あきる野市にある二宮神社にある客門神(アラハバキ)は足名椎と手名椎、櫛名田比売の両親を祀っています。このこともアラハバキが縄文と古い出雲の神である事の裏付けの一つです。 渡来人である須佐之男命が助けた足名椎一家は元々住んでいた縄文系のリーダーでした。この当時は姻戚を通じて平和な関係を維持しました。 須佐之男命は渡来の治水技術で斐伊川を治め出雲のリーダーとなります。その子孫が出雲を治めていきます。 日本に元々あった信仰は山、岩、樹など、自然界の畏敬感じるものを信仰の対象にしてきました。いつ頃から人間が神として祀られるようになったのかは不明です。 [写真はです] 氷川神社になる前に、この地にはアラハバキ神社がありました。アラハバキが客門神になった時、当然ながら縄文・出雲族の先祖である足名椎を祀るようにしました。 話を氷川神社に戻します。天武天皇・持統天皇時代に律令制が固まり神社も大和王権の支配下になります。白村江の戦いの経験からも強力なリーダーシップの上に国を統一しないと滅びるプレッシャーもあり、また天皇制を固める意味においても神社仏閣や祭祀の管理が行われた。 天皇家の祖先とする天照大神を祀り、人民が天皇は天照大神の子孫と信じるように政策・祭祀を進めました。伊勢神宮がその代表です。天武天皇の意思を継ぎ、持統天皇と藤原不比等が天皇を絶対的な存在になるように儀式も取り入れました。中国の帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式である封禅を「大嘗祭」に変えたり、式年遷宮を行ったり、権威を保つ儀式が作られました。 時代の大波に揉まれ神社も生き残る為に変革しなければならない大きな政治変化が2つありました。律令制と明治の廃仏毀釈です。 天武天皇は地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げ、天照大神を祖とする天皇のイメージを民衆に植え付けました。日本武尊をヒーローにして、全国に、特に力が及ばなかった関東・東北にある神社に日本武尊を祀らせました。氷川神社によると氷川神社にも日本武尊が東夷鎮定の祈願をしたそうです。 地元で祀られていた各地の神社は保護と引き換えに、国家の管理に服しました。 律令制になり国の神社管理は厳しくなりましたが前記しましたように、氷川神社は元々祀ってあったアラハバキを客門人として残しました。日本以外の国では元々の神を残すことは考え難いです。冒頭にマヤの話をしましたように、キリスト教会にマヤの神が祀られることはありません。 何か役目を与え共存する日本独特の文化です。伊勢神宮も従来から存在していた多くの神に役目を与え共存しています。諏訪大社も元々あったモレヤ神と共存しています。 雉の氷川神社も生き残る為に神社の形態を変えてきました。氷川神社グループに加わり、素戔嗚尊を御祭として祀り、合祀神として市杵嶋姫命・伊弉冉尊・大山祇命・誉田別尊・菅原道真公・倉稲魂命・国常立命を祀っています。小さな神社なので氷川神社に加わり、天津神系と出雲系の神を主柱として迎えました。 第二の大きな変化は明治元年神仏分離令、廃仏棄釈による変化です。江戸時代にはお寺は幕府の民衆管理機構の一部を担っていました。誰もが寺の檀家になり、キリスト教徒でないことをお寺が確認し、様々な人民管理を幕府の命の元に行なっていました。長年あった神仏習合が破壊されました。神社は仏教的なものは廃棄し、仏教色がある神は名前を神道系の神の名前に変えました。 現在でも改革が必要です。宗教法人として非課税である神社も維持管理に多額の費用がかかり、その費用を捻出が大変で、多くの参拝客がくるように縁結びとしてPRしたり、パワースポットとしてPRしたり、大変な努力をしています。 全ての神社ではありませんが、神社ある今の層の下に縄文からの古代の層があることを意識しながら神社を見て下さい。縄文の祭祀場が原始の神社になり、人を神として祀る神社になり、仏と神仏習合し、時代の流れに変革してきた神社はある意味、日本文化の縮図かも知れません。 筆者も先日 氷川神社を訪れ、祭られている神々の多さには驚きました。アラハバキを始めお稲荷様まであります。これも色々な文化を吸収し発展してきた日本の縮図かも知れません。機会があれば是非神社を見て古層の文化を感じて下さい。 |