写真は一部寄稿者のものではありません。

縄文住居
『縄文から学ぼう』 
『ページ 3 韓国 〜日本との繋がりを訪ねて』

寄稿 : Mr. Tom Ito
『ページ1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ2 縄文と翡翠と三種の神器』 『ページ4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』

==韓国 〜日本との繋がりを訪ねて==

韓国 〜日本との繋がりを訪ねて 日本との歴史的文化的なつながりを探しに、シカゴの先輩お二人と、百済であった光州、 扶余、新羅であった慶州、伽耶であった釜山をまわる韓国旅行をしました。

4 月 16 日

金浦空港に到着後、タクシーにて龍山駅に移動して韓国高速鉄道、KTX で光州に向かいまし た。龍山駅から光州までの乗車時間は約 2 時間。 のどかな風景の中にお墓が日本に比べ多い。李朝時代から子孫の繁栄を願い、見晴らしの 良い丘や、丘の斜面に立派なお墓を作る習慣があった。日本の場合、お墓はお寺が管理す る土地に作るが、韓国は個人の自由意志で好きな場所を選んで、日本に比べ比較的大きな お墓を建てていました。近年ではお墓が土地開発の妨げとなり、また墓を作る土地も少な くなり、墓地公園とか集団墓地とています。又、川や海での散骨、樹木葬も一般的になり ました。
光州駅で筆者が取り引きしていた高麗精密の金 工場長と通訳のスルギ女子の出迎えを受け、高麗 精密の工場に行って、羅社長の案内で工場見学を する。工場見学後に、光州にある前方後円墳、月 桂洞古墳 (韓国呼び名~長鼓墳 )を見学をする。
この近くを流れる川、ヨンサンガン流域に 5 世 紀後半から 6 世紀前半に作られた前方後円墳が 13 あり、光州にある古墳はその古墳群の中の一つです。 古墳が長い鼓の様な形見えるので、韓国では長鼓墳と呼ばれております。日本古来の前方 後円墳と言う意識は地元の人には全くありません。 古墳の形は見る限りでは前方後円墳とは確信し難いが、周りに水堀がほられていること、 韓国には、この様な形の墓は極めて希であり、また埴輪も出土していることから前方後円 墳と言える。
前方後円墳は「誰が」「なぜ」作ったかをめぐり、日本と韓国の歴史学者の間で、意見の違 いがあるが、筆者は次のように考えております。 ヨンサンガン流域の韓国の豪族が日本の前方後円墳を模倣して作ったとの意見があるが、 埋葬と埋葬後の死の世界観は地域によって独自のものがあり、模倣することは極めて稀で、 日本では大和朝廷と関係のある豪族だけが力に応じたサイズの前方後円墳を作ることを大 和朝廷から許されていたことから推定し、ヨンサンガン流域を支配していた倭人が前方後 円墳を作ったと思います。

4 月 17 日

光州博物館を見学

縄文土器と韓国の土器

韓国最古の土器は、紀元前 6 千年頃に製作された「隆起線文土器」であり、その後の紀元 前 5 千年頃、「櫛目文土器」が中西部地域で作られ、瞬く間に韓半島全土に広まった。 隆起線文土器は口縁部や胴の上部に粘土紐や豆粒状の粘土を巡らせた小型の丸底や平底の 屈曲の無い深鉢で、縄文時代草創期初頭の土器で、北海道や南西諸島を除く日本と朝鮮半 島から出土する。
又、日本の縄目と朝鮮半島の節目の違いはあるが、土器に文様を掘る点において共通の文 化を感じる。朝鮮半島南部には日本と同じ縄文人が住んでいた可能性は極めて高いようで ある。

縄文時代の日本との交易

日本から黒曜石が朝鮮半島へ、貝殻の装飾品が朝鮮半島から日本に出荷されていた。日本 国内では北海道、長野、神津島からの黒曜石が全国的に流通していましたが、日本の黒曜 石が韓国に持ち込まれていた事は知りませんでした。 青銅が出現するまでは、黒曜石が金属に変わる刃物の材料で、最大の交易品でした。青銅 器以前は、黒曜石は鉄と同じでした。
日本では弥生時代に青銅器と鉄がほぼ同時に伝わりましたので、縄文時代には黒曜石を通 じ日本と朝鮮半島の交流があった証拠になります。

埋葬方法の類似

この地域でも甕棺による埋葬が行われていた。日本では九州を中心として甕棺による埋葬 が行われていた。埋葬の方法は時代、民族、宗教によりそれぞれ特徴を持った方法で行わ れている。埋葬が同じ事から、この時期 朝鮮半島の南西部に住んでいた人達と九州に住ん でいた人たちは同じ民族の可能性が高いと言える。



扶余に移動し国立扶余博物館見学

百済金銅大香炉は、一羽の鳳凰が香炉の頂点に座る霊妙な形をしている。蓋は滑らかな稜 線が幾重にも重なった山の形。仙人たちの世界を想像し山をかたどる蓋では、山並の間に 設けられた透かし孔から香煙が立ち上るようになっている。
香炉が山の形をしているのは、戦国時代末期から漢代までの中国で盛んに作られた博山炉 (はくさんろ)にその起源がある。博山は海に漂う、仙人が住むと伝えられる伝説上の山。 博山香炉には山水背景に不老不死の仙人と様々な動植物が登場する。
百済金銅大香炉には阮咸、縦笛、排簫、琴、太鼓を演奏する 5 人の楽師から仙人、鳥や獣、 想像上の動物などが細工されている。これらは木々や岩、水などの奥深い山水景色と一緒 に登場し、香炉の世界をより不思議で活気に溢れる千変万化な空間にする。この香炉は西 暦 7 世紀前半に作られたものと考えられる。


日本の関東勢力との結びつき

筆者が扶余博物館にて最も驚いた事は、関東古墳群から発見された金銅製の履物と同じ様 な履物が朝鮮半島で広く発見されている事です。博物館の説明によると、履物は冠帽装飾、 太刀等共に当時の最高の威勢品であり、地方の土着勢力の物のである可能性が高く、百済 が領土拡張した後に地方を支配した過程で土着勢力者に与えた装飾品であったと思われる。 大和朝廷とは別な勢力で、百済もしくは朝鮮半島の他の勢力と何らかの関係を持っている グループが関東に存在していた仮説がありますが、ここの展示を見て仮説ではなく、大和 朝廷とは別の勢力があったと感じます。
博物館に復元された木造船が展示されております。かなり大きな船で、朝鮮半島と日本の 間を自由に行き来でき、大量の物資を簡単に運べたようだ。

4 月 18 日

羅社長の運転で大邱経由で釜山方面に向かう。途中で世界遺産になっている海印寺を見学。

海印寺と八幡大蔵経

海印寺には八幡大蔵経が保存されています。八幡大蔵経は仏教聖典が書かれた印刷用の版 木です。81,258 枚あるので八幡大蔵経と言われております。 八幡大蔵経は二回作られてお り、海印寺にある大蔵経は二回目に作られた物です。最初に作られたものは契丹が高麗に 攻め込んだ時に国家防衛を祈願するために作られましたが、1236 年モンゴルの侵略で焼失 し、15 年の歳月をかけ再び作られました。 海印寺は伽耶山に新羅時代に建てられ、高麗が建国してからは高麗の太祖 王建の支援を受 けて増築された寺である。

海印寺を後にして、伽耶遺跡を見学をすべく釜山に向かう

伽耶遺跡を見学をする前に、日本と伽耶の関係と伽耶に少し触れたいと思います。 伽耶と日本

5 世紀末以前、倭は全ての鉄を伽耶から仕入れていた。 日本では 4 世紀の後半から 5 世紀にかけて巨大な開発が行われ、大量に鋤、鍬に鉄が必要 になった。軍事力をベースに地域統合する上で、やはり鉄が必要であり、大和朝廷は鉄で 地方の豪族を服従させていた。
伽耶は朝鮮半島南部の小さな国で新羅から常に圧迫を受けており、日本は鉄の供給先の伽 耶を援助する為、援軍を送っていた。日本が鉄の生産が可能なるまで、伽耶は重要な鉄の 供給先であった。 倭から伽耶との交易には玉、塩、生口(せいこう 労働者派遣)にて支払いし伽耶から鉄を得 ていたようです。
朝鮮半島南部には多くの倭人が住んでいた。韓国の歴史学者の一部の意見は伽耶国にいた 倭人を傭兵として使ったとの説もあります。筆者の意見は日本から援軍を送ったと考えて おります。その理論根拠は古墳からの副葬品として大和朝廷から同盟国に送られた巴型銅 器が出土してるからです。
高句麗・百済・新羅・伽耶(加羅、金官伽耶)などに共通して、この始祖卵生神話がある。 加えて、天孫降臨神話もある。天孫が天から降臨したというのは、騎馬遊牧民族に共通す る特徴的な神話で、伽耶の建国者・金首露も、伽耶人の集会する神聖な日に天から亀旨峰(ク ジボンー標高 30 メートル丘で、神聖な場所とされる)に降臨した 6 個の卵から最初に生ま れたとされている。(筆者は、この様な神話で国の支配者を一般人と区別する必要があると は思うが、卵から生まれる考えには違和感を感じる。)
2~4 世紀の金官伽耶、4 世紀の新羅では、木槨墓(もっかくぼ)の古墳が多く建造されて いる。大成洞古墳博物館でも木槨墓が展示されている。殷時代からあり周、漢時代の墳墓 の基調であり、シベリア、モンゴル、アルタイ地方でも見られる。これらから推察できる 事は、朝鮮半島に騎馬遊牧民族が南下し、本来住んでいた人々を支配し土地を収めたと考 えられる。

大成洞古墳博物館(金海)を見学する

金首露(スロ)

建国神話によると 金首露は 天降った 6 個の金の卵の中から生まれ、一番最初に殻を破っ て世に出てきたので首露と名づけられた。6 個の卵からそれぞれ生まれた男の子たちは伽耶 六部族国家の長となり 後にこれらの部族国家が金首露の下に統合されて 西暦 42 年 伽耶 国が建国されたとされています。
多くの鉄を産出し日本を始めとする海外へ鉄を輸出しており、鉄は武器となるので、世界 最初の武器商人と言われております。首露の王妃はインドのサータヴァーハナ朝の王女と 伝わる許黄玉。DNA 調査でインドから来たのは証明されている。博物館の方の説明によると 中国に来ていたインド商人の娘ではないかとの事。
筆者は伽耶が鉄の輸出国になった環境、背景を知りたく、博物館の係員の方に聞いた。係 員の方によると、磁石ができ、それにより砂鉄を簡単に採取出来ようになり、粉砕した貝 殻を入れて鉄を作った。さらに、鉄を溶かす釜に空気を上手く送るフイゴのノウハウが確 立した。
シカゴに戻り、古代の製鉄製法について調べてみると、確かに「たたら製鉄」でも貝を使 って鉄に硬さや靭性を向上させる C と P を生み出していた。伽耶では大量に鉄鉱石が出て いた様で、博物館の方から説明あった砂鉄は間違いではないか、又は鉄鉱石も砂鉄も両方 使われたかもしれない。
余談ですが、鉄を作るには大量の木材が必要で、伽耶は周辺の木材を使い切り、自然が豊 かで木材が豊富な日本に移った。それが「たたら製鉄」となったとの話もあります。 ところで、日本語の「カマ」は韓国語です。カマは韓国語でも、釜や窯を意味します。製 鉄で窯は最も重要な設備の 1 つで、朝鮮半島から来た人たちが「たたら製鉄」を始めた仮 説は納得がいきます。
前記した木槨墓について、博物館の説明によると、伽耶の墓は、木管墓(生成期)→木槨墓(成 長期)→主木槨墓と副木槨墓(最盛期)→竪穴式石棺墓(衰退期)と変化している。


殉葬の風習

伽耶での殉葬の風習はおそらく北方遊牧民族系の流れで、人及び馬、鳥を殉葬するように なったと思われる。 博物館で馬、鳥の殉葬を確認できなかったが、墓室に馬の鞍が服装品として埋葬されてい た。 日本でも殉葬の習慣があったようだ。魏志倭人伝に卑弥呼の埋葬時、100 人余りの奴婢が殉 葬されたとある。
日本でも殉葬の習慣があり、仁徳天皇(BC29-70?)の皇后が亡くなった時から殉葬から埴輪 に変えた。この時代の支配者がいかに死の世界を恐れたか、逆の言い方をすれば、安心で きる死後の生活を行うために、お付きの者を殉葬させ、多くの副葬品を埋葬させた。支配 者の権威を示すと言う目的もあったと思うが、現代から考えると想像もつかないような世 界のようです。

慶州に移動に移動し大明リゾート ホテルにチェックイン

4 月 19 日

今日は慶州にある遺跡を見学する予定です。少し慶州及び新羅について記述いたします。

新羅は紀元前 57 年から 935 年まで続いた朝鮮半島の国の中では最も長く続いた国家であり、 503 年に新羅を国号とした。 「徳業日新 網羅四方」徳のある国に新たにし、四方を網羅する意味の詩から新と羅を取り 新羅と国名する。
日本との関係は百済ほど深くはないが、朝鮮三国史記に日本人が登場するのは紀元前 50 年 から紀元前 20 年頃、瓠公(ここう→ヒョウタンを腰につけて来た倭人)を馬韓に派遣し、 交渉とあり、新羅の政治の中枢に日本人がいたと思われます。又、新羅の 4 代目の王は倭 から来たとある。筆者は当時は国境も国もなく人々が自由に行き来した時代であったと考 えております。
新羅が朝鮮半島統一した時期から小中華的な国家になります(韓国人の方はこの意見に猛 反対するとは思いますが)。 新羅と唐の連合が百済と高句麗を滅した後、新羅は制度、服、全てを唐に習って変えた。 名前も朝鮮半島本来の名前から中国の名前、現在の名前、姓を漢字の一文字に変えた。 金春秋(キム チュンチュ)、後の武烈王は倭を新羅よりにすべく、倭に唐の情報、文物を 送ったり、使者を送ったりしたが、中大兄皇子は新羅の使者が唐の服 を着て訪朝するのを 見て、唐服は属国を意味し、日本も唐の属国にするつもりかと、怒り、使者を追い返す。 これ以降日本との正式な交流は無くなりました。
現在の町の名前は慶州ですが、新羅から高麗時代になって、従来の徐羅伐 (韓国語でソラ ボル)から慶州に変えました。 韓国では従来の支配者に代わり新しい支配者が現れると、従来の都は破壊されることが多 く、慶州は古い遺跡も残っている珍しい街です。韓国の京都と呼ばれており、修学旅行者 も多い町です。

仏国寺

新羅時代に神聖化されたトハム山に仏国寺(世界文化遺産)と石窟庵が建立された。 金大城、宰相が建立。744 年に完成した石造建築。 仏国浄土(仏が住む煩悩がない清浄な国)を建物で表現し、石窟庵と共に新羅仏教文化の 核心である。
李氏朝鮮時代になり、仏教は弾圧され存在が許された寺は 36 の寺院で、仏国寺と石窟庵は その 36 には入っていない。 秀吉の朝鮮征伐、文禄 慶長の役で建物や宝物がほとんど焼失し、掠奪された。 1924 年 日本統治時代から再建工事が始まった。 俗世を離れて仏の世界、極楽浄土に導かれる寺院として建立されたのですが、現代人には、 その極楽浄土が感じられないのが残念です。極楽浄土の感覚は得られませんが、建物の美 しさ、自然の美しさには素晴らしいものがあります。



石窟庵

石窟庵は人口石窟の中に作られた如来坐像は 774 年 完成した。 李氏朝鮮時代の仏教弾圧で 500 年 放置され、近年発見された時は、崩壊寸前であった遺跡 を修復した。 如来坐像も素晴らしいが、駐車場から寺院へ至る参道からの眺めはすばらしい。さすが霊 山と謳われるトハム山(吐含山)の参道です。春のこの季節も素晴らしいですが、おそらく 秋の紅葉時はもっと素晴らしいだろうと想像します。

善徳女王墓

博物館へ移動途中に偶然に善徳女王墓の看板を見つけ、墓を見学する。 筆者が韓国ドラマ「善徳女王」を見ていて親しみのある女王だったので寄ることにした。 善徳女王は新羅の最初の女王(647 年)で、仏教の保護にも熱心であり、センセイダイ(天体 観測用に石で作られた天文台)を作ったとされている。新羅時代に三人の女王が即位するが、 善徳女王は最も聡明な女王でした。
この場所は善徳女王の遺言で作られた墓で、須弥山(古代インドの世界観の中で中心にそび える聖なる山)の頂上にある帝釈天の住む世界に相当する場所とされた。 女性の天皇であった斉明天皇も宮を建設するにあたり仏教の中心を表す須弥山石を使用し た事が、なにか二人の女王に共通するものを感じる。

国立慶州博物館

勾玉

ここの博物館にはおびただしい数の勾玉が展示されております。勾玉の材質も翡翠、水晶、 瑪瑙とあらゆる材質があります。首飾り、冠、腕飾りと多岐にわたり勾玉が使用されてい る。勾玉の数の多さには筆者も驚いています。 勾玉は縄文時代に生まれて、装飾品として、霊的な力を与えてくれるシャーマニズム的な 使い方に発展した物です。勾玉や翡翠の装飾品は日本からの交易品として、数多くの製品 が朝鮮半島に来ております。
日本では大和朝廷が朝鮮半島から手に入れた鉄を用い、地方の豪族を支配していたように、 朝鮮半島でも日本から来た勾玉等の装飾品を豪族に与えて手名付けています。 大陵苑には 12 万坪を超える敷地に 23 期の古墳があり、天馬塚と呼ばれる古墳から出土し た金冠には数えきれないほどの勾玉が装飾されています。翡翠の勾玉は大変高価なもので あり、数多く持っていたり、翡翠の勾玉を身に付けることが富と権力の表現になっていた と思われます。
古墳の副葬品を見ると韓国の古墳からの副葬品か、日本の古墳からの副葬品かわからない 位、類似しています。 全てが朝鮮半島から生み出されたものであるとクレームする韓国から、日本の 3 種の神器 も韓国が原点だと言う意見が聞こえてこないのが不思議な位、副葬品が日本と同じです。

エミレの鐘

博物館の大きな広場に巨大な釣鐘がある。 製作時、なかなか完成に至らず、鋳造する際に溶けた銅の中へ、ひとりの娘が生贄として 命を捧げたといわれており、このときに娘が「エミレ(お母さん)」と泣き叫んだことから、 この鐘は別名エミレの鐘と呼ばれているそうです。
世界中どこでも生贄の儀式が行われており、日本でも人柱と言われる生贄の儀式が長く続 いていました。このような話を聞くたびに、筆者は縄文時代の素晴らしさを感じます。荒 ぶる自然、神を諌めるため、何かを捧げる行為は人間の本能に近い行動です。縄文時代は 土偶が生贄として、壊され埋められました。血の匂いがしない縄文時代の素晴らしさを改 めて感じます。

東宮と月池(雁鴨池)

「月池」は 674 年、新羅の三国統一を記念し文武王により造成された新羅時代最大の人工 池で、貴族たちが船を浮かべては「池に映る月」を楽しんだと伝えられています。「雁鴨池」 という名称は新羅滅亡後、廃墟となった池に雁や鴨が住み着いたことに由来します。敷地 内には「臨海殿址」と呼ばれる新羅王宮の別宮「東宮」の跡地があり、現在は3つの建物 が復元されています。

雁鴨池の出土品の一つで宴席で用いられた 14 面体サイコロがあります。

サイコロには 三盞一去(酒を 3 杯飲む)、空詠詩過(詩を詠ずる)、禁聲作舞(声を出さず に踊る)、衆人打鼻(皆に鼻を打たれる)など酒席を盛り上げる内容が書かれており、当時 の貴族たちが遊んでいる姿が想像できます。
酒を楽しむ文化は日本と類似していますが、筆者の個人的見解では、韓国には、酒に強い 事は何か強いとする文化があるような気がします。ともかく、たくさん酒を飲みます。 儒教から来ているかもしれませんが、一人で呑まず、同席してる人を誘い酒を飲む習慣が あります。台湾にもあり、同席している誰かを誘い、一緒に飲む習慣です。酒に弱い人に は困る習慣ですね。
又、日本と同じように、比較的 酒の席での失敗に寛容さがあります。歴史、文化的にも日 本との共通性を感じます。

最後に、この旅行に付き合っていただきましたシカゴの先輩お二人と高麗精密の皆様方に 改めまして感謝の言葉を述べたいと思います。有り難うございました。