☀☀『千曲川、五十余橋と藤村そのほか』☀☀

2013年1月

 寄稿 : 佐々木  行さん 


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 (ひとつ余談)神奈川県大磯町地福寺に眠っている藤村の墓名碑も有島生馬によって書かれた。    

小諸から佐久へ
 小諸大橋(四三〇歩)から佐久大橋までは直線距離にすると十三~四キロ、それが実際に歩いてみると十七~八キロ。蛇行が多くて直進できず大幅な迂回を要し、かつ河岸と一般道とを往ったり来たりの難渋ルート。  詩人・小説家の佐藤春夫が、太平洋戦争末期に疎開していたのは北佐久郡平根村、いまの佐久市上平尾平根の辺りとのこと。詩集『佐久の草笛』に現れる処も訪ねてみたいが、琵琶島橋(一二〇歩)の上手で千曲川に流れ込む湯川を遡って、岩村田駅の先までの遠路とあってはひとまず見送る。    

前山(佐久市)
 佐久大橋から南の臼田橋までは野沢橋(二二〇歩)、住吉橋(同じく二二〇歩)の順に一直線にほぼ五キロ、徒歩一時間とちょっとの近さであるが、道筋をひねって三角形のコースをとる。  JR小海線中込駅から佐久大橋(二八〇歩)を渡り、そこから西へ五〇分ほどで前山の貞祥寺に到る。山裾の境内には「島崎藤村小諸時代旧栖の家」が移築復元されている。なぜ小諸から佐久へ? かなり複雑な事情があると云う。それはともかく「藤村生誕一〇〇年・歿後三〇年を記念して…略…解体復元工事に着手し、一九七四年六月完成した」との説明が付いている。「草葺屋根の平家」の内部には入れず周囲を見るだけ。    

稲荷山(佐久市)
 貞祥寺から田や畑を抜け臼田の町並みがつきるところまで大体一時間、稲荷山なる小高い岡に登り、息切れと喘ぎのなかに対面する碑文。  「千曲川旅情のうた きのふまたかくてありけり/今日もまたかくてありなむ/この命なにをあくせく/明日をのみ思ひわづらふ/…略…千曲川やなぎかすみて/春あさく水流れたり/ただ獨り岩をめぐりて/この岸にうれひをつなぐ 藤村」。  詩の一節一節を朗誦しながら見る風景は、千曲川が右下方を寒風をついて北へ走って行き、東方間近に荒船連山が迫り、北方遠くに浅間山が雪を載せて光っている。山々の裾野と佐久平の広がり、闊達とした眺めにしばしの旅情を味わう。岡を降り、臼田橋(既述一九〇歩)の先三~四〇〇メートルが小海線臼田駅であった。           


            私は、千曲川流域の地とは何のゆかりも利害関係も持たない、単なる“旅行者”であった。。けれども、川と橋とに十数回“通い続けた”あとでは特別な親近感が湧いてきた。  田中橋(一三〇歩)の手前、旧北国街道の海野(うんの)宿では、あるお店のご主人から茶菓をごちそうになったし、又、中津橋(一八〇歩)の東詰、旧中仙道の塩名田宿では、道を尋ねたら、近所のお茶の集まりに誘ってくださった人がいた。  時と所によって変わる川の姿、山野を愛でた数々の詩文、出会った人々の温かなもてなし……、思い出せば懐かしい、(いささか“千曲川過剰の”)「川と橋」の訪ね歩きであった。           

         

註1. 島崎藤村の出身地、木曽の馬籠(まごめ)、元長野県木曽郡山口村は、二〇〇五年(平成十七)二月の越県合併の結果、岐阜県中津川市の一部となった。従って藤村の出身について触れるときは、「昔は長野県、今は岐阜県の人」という注釈を付けるべきなのか?

註2. 長野電鉄河東線の北端木島線((信州中野~木島)は二〇〇二年四月に廃止、同じく河東線の南半分屋代線(須坂~屋代)は二〇一二年四月に廃線となって、現在は走っていない。

註3. 現在「千曲川旅情の歌」という題で知られている詩は、もともとは「小諸なる古城のほとり……」に始まる『旅情』と、「昨日またかくてありけり……」と詠い出す『小吟』と、それぞれ題を異にする二つの別個の詩としてどちらも一九〇〇年に発表された。

 二つの詩は、一九二七年に岩波文庫『藤村詩抄』において「千曲川旅情の歌」と総題を付され、前者は「その一」後者は「その二」という形に整えられた。  また、詩題の「千曲川旅情の[歌]」は、詩の紹介その他の引用に当たっては「千曲川旅情の[うた]」とやさしい表示になっていることが多い。 註4. この文中に用いた藤村作品の文章については、碑文やその説明文等を直接書写したもの以外は、おおむね『千曲川のスケッチ』新潮文庫、『破戒』岩波文庫の各旧版に拠っている。                                (了)                 

             
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