写真は「道の駅、花の駅 千曲川」からコピー


    ☀☀『千曲川、五十余橋と藤村そのほか』☀☀

2013年1月

 寄稿 : 佐々木  行さん 

千曲川流域の情報


 万葉集の東歌のなかに千曲川を詠った歌が二首あり、その一つ 「信濃なる 千曲(ちぐま)の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ」 (巻十四の三四〇〇番、作者不明)、―大意、信濃の千曲の川のさざれ石も、愛しいあなたが踏んだ石なら、玉と思って拾いましょうーこの歌は千曲川のどの辺りで詠われたのだろうか?  「汽車が小諸を離れる時…略…谷の下の方を暗い藍色な千曲川の水が流れて行った。…略…雪国のうっとうしさよ。汽車は犀川を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが…略…」(「千曲川のスケッチ」その十 千曲川に沿うて)―こういう場景は今でも実景として見られるのだろうか?  

こんな疑問と好奇心に駆られて、千曲川の飯山市と佐久市との間約一二〇キロメートルを、川沿いに歩き、そこに架かっているすべての橋を自分の脚で渡ってみた。渡った橋の数五十四、橋の長さの合計(私の脚による実測歩数の合計)二四,一七〇歩、約十九キロメートルとなる。  さて、千曲川とは、日本で川の長さが第一番目の信濃川の上流部、長野県内の甲武信岳の麓から新潟県境に至るまでの部分の呼び名。長野県下の延長はおよそ二一四キロとある(『大日本百科事典』(小学館)等の記述)。  手始め、いや足始めに飯山市の中央橋四六〇歩(実測歩数、以下同じ)を渡ったのは十二年前の二〇〇〇年八月、、足納めは中野市の立ケ花(たてがはな)橋二七〇歩で二〇一二年十月、結構長い期間がかかった。  以下は、歩いた区間での最下流飯山市常盤の常盤大橋(二六〇歩)から、最上流佐久市臼田の臼田橋(一九〇歩)までの遡行記録の一部である。ただし、この区間を完全に歩き通したということではなく、最寄駅からある橋まで或いはその逆のアクセス具合や、一つの橋と次の橋との距離が長い場合等状況に応じて、適宜歩行を省略した部分もある。

飯山(一)
 島崎藤村の小説『破戒』は飯山を主な舞台として書かれている。書き出しは「蓮華寺では下宿を兼ねた。瀬川丑松が急に転宿を思い立って、借りることにした部屋というのは、…略…飯山の町の一部分も見える。さすがは信州第一の仏教の地…略…」(第一章―一)となっており、モデルとされたお寺は安養山笠原院真宗寺、JR飯山線飯山駅から歩いて五分程のところにある。  門を入ってすぐ右手に「蓮華寺では~信州第一の」の個所を刻んだ「破戒」文学碑が建っている。小諸城址・懐古園内の藤村記念館には、この碑の拓本が展示されている。  「破戒」の先行作品「椰子の葉蔭」は、この真宗寺住職の女婿藤井宣正氏が、京都西本願寺・大谷光瑞師主宰による「西域仏蹟探検隊(一九〇二)」に参加して、第一次隊のリーダーとして活躍した事績が素材となっている。    

飯山(二)
 父親の死の知らせを受けて小諸へ帰った丑松が葬儀を終えて飯山へ戻ってくる場面「千曲川の瀬に乗って下ること五里、…略…飯山へ着いたのは五時近いころ。その日は舟の都合で、乗客一同上(かみ)の渡しまで。丑松は人々といっしょにそこから岸へ上った。(第十二章―四)  「破戒」には千曲川を舟で上り下りする場面が時々出てきて、飯山には“上の渡し(かみのわたし)”と“下の渡し(しものわたし)”の二か所の船着場があったことになる。その船着場はどの辺だったのかと川堤へ向かう。  真宗寺から一〇分位のところ、中央橋の西詰に「飯山港之跡」という石碑があり、「千曲川は塩の道であった。山国信州はその最も近い越後の海の塩をはじめとする…略…」の説明を読む。この石碑と並んで「千曲川の通船」と題する説明板があり、その記述「文豪・島崎藤村の『千曲川のスケッチ』には、明治三十五・六年頃の千曲川の川船の様子が情緒豊かな筆致で描かれている…略…」から、この辺が“渡し”の場所であったと考えられる。    

飯山(三)
 中央橋、何度も登場するが、長さ約三五〇メートル、そのうち水面部分は一五〇メートル前後、水量が豊か、滔々と流れて行く。藤村の云う「大河の趣」をちょっぴり実感したつもりになる。渡って三キロ先は木島、往時は長野電鉄の木島線が走っていて、一度だけ小布施・須坂の方へ乗って帰ったことがある。飯山の町・寺・川巡り、諸寺の池に蓮の花が咲き揃う夏は良いが、映画「破戒」(出演 市川雷蔵、藤村志保ほか)のラストシーンを体験しようと思い、真冬に橋上を歩いたときには、吹き付ける風と雪に阻まれて通り抜けを断念して、「雁木通り」の街へ逃げ帰る始末であった。    

小布施、豊野
 飯山から二十キロばかり遡ったところ、長野電鉄小布施駅とJR豊野駅との中間に架かっているのが小布施橋、この橋は一,一七〇歩(約九二〇メートル)と随分長い。地形を見ると、堤防から水面まで広い畑になっている。「豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施の栗林もある。…略…雪の中を私達は蟹沢まで歩いた。そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。」(「千曲川のスケッチ」その十―千曲川に沿うて)という個所はこの近辺であったのかも知れない。  豊野駅北口の小さな緑地に「破戒」の碑。「軈て(やがて)発車を報らせる鈴の音が鳴った。…略…『やあー猪子先生』と丑松は帽子を脱いで挨拶した。…略…『おお、瀬川君でしたか』」(第七章―二)。    

北陸新幹線
 長野駅から北へ延伸工事中の線路は、高井富士と云う別名を持つ高社山(こうしゃやま、標高一、三五二メートル)の山麓を千曲川と併走しているが、前述の立ケ花橋南方で川を左岸から右岸へ跨ぎ、綱切橋(三七〇歩)の南方で右岸から左岸へ戻り、飯山駅の南端で飯山線と直角に交差する。    

川中島
 犀川と千曲川の合流地点に架かる落合橋(一,二二〇歩)は二つの川を連接して越えるため、今回歩いた区間では小布施橋とともに最長の橋。  ここから関崎橋(七〇〇歩)、更埴橋(六九〇歩)を過ぎて松代大橋に至る迄の西側一帯が八幡原史跡公園(川中島古戦場跡)で、“鞭声粛粛夜河を渡る……”と謙信・信玄の一騎打ちの歴史を蘇らせる両将の像や諸々の碑、塚、墓等、それに長野市立博物館がある。                 

             
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