◆◇◆折口信夫  その2◆◇◆
(本稿の前半、 その1 『死者の書』」はここからご参照)

左から 折口信夫、折口信夫生誕の地、当麻寺、
2018年10月
寄稿 佐々木 行


      折口信夫。   おりくちしのぶ。法名、歌人・詩人としての名は「釋迢空(しゃく ちょうくう)。 歌人、国文学者、民俗学者。 一八八七年~一九五三年。 大阪生まれ。 國學院大學国文科卒業。 國學院大學教授、のち慶応義塾大学教授。 「アララギ」「日光」同人。 歌集『海やまのあひだ』ほか、詩集『古代感愛集』ほか、研究著書『古代研究』―民俗学篇・国文学篇―ほか、小説『死者の書』ほか。  (吉田精一編『日本文学鑑賞辞典 近代編』、『釋迢空歌集』(岩波文庫)、富岡多恵子 『釋迢空ノート』 等による。) 

一,鷗町公園、願泉寺     大阪市浪速区 

 折口信夫は、一八八七年大阪府西成郡木津村市場筋(現在の浪速区敷津西一丁目)に生まれた。そして、折口家の菩提寺・願泉寺は、現浪速区大国町(だいこくちょう)にある。
 JR難波駅の南の方向、または今宮駅の東北の方角、地下鉄御堂筋線・同四つ橋線の大国町駅から出て徒歩数分、浪速図書館のそばのこじんまりとした鷗町公園に生誕記念碑が建っている。一つは高さ二メートルほどの「折口信夫生誕の地」と書かれた石柱。もう一つの碑は高さ一メートル、幅二メートルくらいで折口の文章が刻まれている。それは折口が幼時に親しんだ今宮戎神社(えべっさん)のお祭りの思い出。戎神社と折口の生家との距離は約一キロメートルだったという。
 碑面「ほい駕籠を 待ちこぞり居る 人なかに おのづからわれも 待ちごころなる。正月がすむとすぐ十日戎である。・・・十丁あまりの間に、ずっと子宝店その外の店が出て、揉み返すやうな人ごみである。其中を圧され圧されて来る色町のほい駕籠を見に出た記憶が消えない。」短歌と地の文併せて十行、「増井の清水の感覚」という題の一節。(折口信夫全集新版第三十三巻)。
 折口家の菩提寺は、鷗町公園から七~八分の大国町二丁目にある願泉寺。本堂脇の墓地入り口から右手に折れた突き当たりに、「折口家先祖代々霊位」と記された墓石が見える。折口の分骨がここに納まっているはず。しかし、墓石裏面にはなんの記述もなくて、墓誌も見当たらないため、埋葬されている人々の名は不詳。  私(佐々木)は最初、二〇〇六年四月ここを訪れた。これは大阪市の南の地域を廻ったときで、このほかに、宇野浩二の「清二郎夢見る子」碑、林ふみ子の「めし」碑、織田作之助の墓所、竹田麟太郎の墓所、伊東静雄の「百千の」詩碑等を尋ね歩いた。二度目は二〇一二年三月末~四月初め、大阪市を足場に東大阪(旧布施)、堺、奈良一円を巡った際、早朝にこの公園と菩提寺を見てから二上山(の第一回目登山)に向かっている。  

二.國學院大學     東京 渋谷区東四丁目 

 折口信夫は、一九〇五年から一〇年まで國學院大學国文科に学ぶ。卒業後、大阪の今宮中学校教員などを経て、一九一九年國學院大學講師、二一年同大学教授となり教職、研究に勤しむ。二八年慶應義塾大学教授となる。
 渋谷駅東口から東へ向かい徒歩十五分、六本木通りを横切り金王神社を過ぎ、旧志賀直哉邸の横を通り國學院大學校舎に着く。地下鉄銀座線表参道駅から骨董通りに入り、同じく六本木通りを横断し、常陸宮邸の前を東へ歩くルートでもおよそ十七、八分。
 校門を入ってすぐ右手に石碑と石像が四基建っており、そのうちの右側の二基が「釈迢空歌碑」と「学徒慰霊之碑」、どちらも太平洋戦争に学徒出陣で出征して帰らなかった学生のための鎮魂碑。
 歌碑「人おほく かへらさりけり 海やまに みちてきこえし 聲もかそけし」。次の悼辞が添えられている。「この学び舎にいそしみし人びとにして 昭和の戦ひの場にいでゆきて 帰らざりしあまたの若き御魂を ここに鎮(しず)め斎(ととの)ひまつる いまはみ心もなごみいまして 静かなる世の 後輩のすがしき学びのさまを み眼もさやかに 見まもりたまえ」。そこには、あるいは、一九四五年硫黄島で戦死した養嗣子の春洋(はるみ、旧姓藤井)を偲ぶ想いも込められているのであろうか。
 校門と道路を挟んだ向かい合わせの建物「学術メディアセンター」の地下一階に、「國學院大學博物館」がある。従来の「考古学陳列館」と「神道資料館」を、二〇一三年に統合し、「博物館」として発足させたものである。「日本のモノと心を知る」というタイトルのもと、広いスペースに「考古」「神道」「校史」の三つに区分されたゾーン=常設展示場と、さまざまなテーマによる企画展示室とが配置されている。
 どの展示も教示に富んだ内容であるが、特に「考古ゾーン」は旧「考古学陳列館」を引き継ぎ、日本列島史とも云える膨大な量の考古学資料が圧巻。そして、展示スペースの一区画が「折口信夫『叢隠居(そういんきょ)書斎』」であり、むかし箱根・仙石原に在った折口の山荘の一室を、そこで折口が一九四八年頃『死者の書 続篇』を執筆中という想定で復元展示している。
 なお、二〇一七年が生誕百三十年に当たることから、(一年早めの)二〇一六年秋に、大学博物館で「生誕一三〇年記念 折口信夫と『死者の書』」展が、大学隣接の渋谷区郷土博物館・文学館で「生誕一三〇年記念 折口信夫の世界」展が催された。が、私はどちらの展示も観ていない。
 同大学には、現在も「折口博士記念古代研究所」という組織があって、折口の研究を継承し、その研究資料と自筆原稿を多く所蔵しているが、非公開とのことである。
(註) 國學院大學の前身は、一八九〇(明治二十三)年、旧飯田町五丁目・現千代田区飯田橋三丁目に開校された「皇学研究所」である。JR飯田橋駅から目白通りを九段寄りに百メートル、ホテルメトロポリタンエドモントへ曲がる角に、「國學院大學開校の地」という標識兼説明の石柱が立っている。  

三.海蔵山大龍寺     秋田県男鹿市 

 JR秋田駅から「男鹿線」で五十五~六十分の乗車、十一番目の駅が終点「男鹿駅」、町の名は「男鹿市船川港(おがしふながわみなと)」。昔風の言い方をすれば、「船川線、船川駅、船川町」となり、秋田市に育った私(佐々木)としてはこちらの方が分かり易い。  この町は、折口の[ただひとりの「女」弟子]とも云われる穂積生萩(ほづまなまはぎ・歌人・旧姓名沢木数枝)の出身地であり、生萩の実家=沢木家は船川町の旧家にして大龍寺との関わりが深い。
 駅から西の方へ徒歩で七~八分、上り坂に掛かった辺りに大龍寺がある。立派な山門の前に「楽水亭庭園、折口信夫(釈迢空)最北の歌碑」と書かれた看板が出迎えている。広くてきれいに手入れされた庭園を抜けた先に本堂がある。本堂を拝観していると、住職さんが現れて庫裏(くり)へと導かれた。私の来山目的が「生萩と折口と当寺との係わり」にあると知ると、住職さんが詳しい説明をしてくださった。その間においしいお茶を御馳走にになる。
 生萩と折口とに係わる巷間の説の真偽に触れながら、住職さん曰く、(一)折口は生萩を自分の孫娘のように可愛がっていた。(二)名前の「生萩」は当地の「ナマハゲ」に因んで折口が付けた。(三)穂積忠彦との結婚は、折口が穂積・沢木両家の橋渡しをした。(四)折口は自分が独身であるにもかかわらず、媒酌の役を務めた。(五)沢木家への挨拶のため船川へ来たとき詠んだ和歌の歌碑があり、それは多分日本で一番北に位置する折口の歌碑であるはず。(六)このお寺では、婚礼時に生萩が着用した衣装の一部を保存している。(七)沢木四方吉(さわきよもきち・西洋美術史家・慶応大学教授・折口の友人)は生萩の叔父=生萩の父親の末弟、つまり生萩は四方吉の姪にあたる。その顕彰碑もこのお寺に在る。等々。
 一時間余りのご住職の法話ならぬ文学談義を厚く謝し、庭園内の歌碑と顕彰碑を確認する。二つの碑はほぼ隣り合って建っていた。歌碑「船川のちまたの桜さわやかに 咲くとき遠く嫁ぎゆかむとす」―「遠く嫁ぎゆかむ」とは、生萩の婚家が静岡県伊豆大仁町ということから―。顕彰碑「澤木四方吉は明治十九年澤木晨吉の五男として男鹿船川港に生まれた・・・略・・・ 昭和五年病に倒れ若くして世を去った。明治の慶應義塾の生んだ最高の俊秀の一人である。」前者は生萩が建立者、後者は生萩の撰文、どちらも生誕百年祭り=一九八七年(二人とも生年が一八八七年)に記念として建てられた。
 澤木家の屋敷―二〇〇一年当時の資料では現存となっている―の確認を、時間の関係で割愛したのは心残り。だが、二〇一三年十一月の初頭、好天の午前、高台に在る大龍寺楽水亭からの男鹿半島の連山と日本海の眺めは素晴らしかった。  

四.寺家の墓所     石川県羽咋(はくい)市 

 「ジケの共同墓地と云えばわかりますよ。」、「ジ、ケ、?」,「寺の家という字を書いて『じけ』と読むんです。気多(けた)神社の辺りの地名です。先ず気多神社を目標にして行くと良いでしょう。」という道案内を聞いて、羽咋(はくい)駅前を“自転車”で出発した。  東京の代々木駅前を前夜二十二時発の夜行バス、朝六時三〇分に終点金沢駅前着、七時少し前金沢発の七尾線下り列車に乗り、八時丁度に羽咋駅に着いた。暫時休憩のあと、うまい具合にレンタサイクルが借りられた。其処で目的地への道筋を尋ねた次第。
 さて、折口の墓所は、大阪市浪速区と石川県羽咋市との二か所にある。大阪の墓所はすでに確認済みなので、今回は羽咋一の宮海岸に在る「折口春洋ならびにその父信夫の墓」を訪ねる段取り。[何故羽咋に? → 補足 1. 養子春洋とは? → 補足 2.]
 駅から国道二四九号線を北上、四~五キロメートル進んだ頃合いに、道路の左側に「折口博士父子の墓」という標識を見つけ、本道から別れて集落の中へ入る。適当な間隔で現れてくる案内標識がありがたい。そのうちの一枚には信夫・春洋の和歌(後述)が書かれていた。ほどなく家が途絶えた先に墓地が見えた。あとでこれが「寺家(じけ)の共同墓地」と判った。ここまでの所要時間およそ二十五分。海岸に近いせいか、地面は土というよりは砂地である。更に進んだ丘の上に「折口父子の墓」という白い標示の柱と墓石が立っている。着いた。
 墓石は白色、正面が縦横約一五〇センチの方形、側面は厚さ約四〇センチ、全体として薄い箱型の磨かれた墓碑である。頭を垂れ父子に悼意を表してから墓銘碑を読む。「もっとも苦しき/たたかひに/最くるしみ/死にたる/むかしの陸軍中尉/折口春洋/ならびにその/父信夫/の墓」。裏面の刻字は小さくて摩耗が激しいため判読が困難。
 この墓石から少し離れて一段低くなったところに墓碑とは異なる形の石碑がある。黒ずんだ灰色、高さ一〇〇センチ、横幅一五〇センチくらいの菱形をつぶしたような形状。折口の門下生・歌人の岡野弘彦による鎮魂碑「荒御魂/二つあひよる/み墓山/わが哀しみも/ここに埋めむ/弘彦」。[鎮魂碑と岡野弘彦 → 補足 3.]
 墓碑と鎮魂碑との中間に、大きな写真と地図入りの「羽咋市の折口マップ」、ゆかりの場所についてのわかり易い説明である。 
 墓地を掃除している男性を見かけたので会釈すると、私と同じ年齢くらいの人、「あのお墓にお参りしてくださったのですか。有り難うございます。」と丁寧なご挨拶。そのあとに意外な言葉が出てきた。「春洋さんは私の叔父です。私のおやじの一番下の弟だったんです。だから私は春洋さんの甥っこです。けれども、歳が離れていたので、直接の事はほとんど覚えていません。」驚いた! ゆかりの人が!
更に静かな口調が続いた。「以前は、毎年折口先生の命日・九月三日にお祭りがあったんですよ。岡野先生をはじめ沢山のかたが見えていました。でもいつのまにか(お祭りが)無くなってしまいました。岡野先生のほうに何か事情ができたのでしょうかね。」 [「祭り」 → 補足 4.]
 「お廻りになるのだったら、この先の気多神社に歌碑や句碑があります。駅・町のほうの郷土館へ行けば、二人についての説明や展示が出ています。それから、羽咋高校の校歌は先生の作詞で、学校のどこかにその(校歌の)歌碑があるはずです。」 気多大社は予定していたが、郷土館と高校のことは知らなかった。貴重な情報、それも行くべし!
 「甥御」さんにお礼を述べて気多大社に向かった。距離四~五百メートル、古来能登の国の一の宮として崇敬されている格式高い御社(おやしろ)である。鳥居の左手、休憩所の広場横の小さい林の中に、相並んで二つの歌碑。向かって右は「気多のむら若葉くろずむ時に来て 遠海原の音を聴きをり 迢空」、左は「春畠に菜の花荒びしほど過ぎて おもかげに師をさびしまむとす 春洋」。二碑とも文字が摩耗していて殆ど読めない。来る途中の案内標識に書かれていた歌はこの二首だったのだ。社殿の裏手、藪を抜けて池の堤の上に句碑を見つけた。「くわっこうの なく村すぎて 山の池 迢空」、裏面の文字、 なんとか判読すると「折口父子墓の立つ昭和二十四年七月十一日の作 随う者 伊馬春部、池田弥三郎、藤井巽」、お弟子さんのお歴々の名であった。
 これで当初予定していた墓所と神社が済んだので、往路と逆方向に駅・町へ走る。駅の東側一キロメートル弱の所、鶴多町の「羽咋市歴史民俗資料館」(郷土館)、二階の一角に折口父子に係わる展示コーナーが設けられている。項目として、○折口博士と羽咋市、○折口信夫、○折口春洋、○春洋國學院大學教授委嘱状、○折口博士自筆書簡、○釈迢空詩稿と色紙の複製、の分類で展示・説明がなされていた。
 郷土館から程遠からぬ柳橋町に所在する石川県立羽咋高等学校まで来た。校門を入って右手前方、松林の縁に「校歌碑」があった。刻まれている歌詞は、全部で三連のうちの第一連の九行「沙丘に朝の日ぞのぼる/みな出でて見よ水や空/・・・略・・・/ああ新しき日本を/吾等は在らむとこしへに 折口信夫書」。[羽咋高校校歌 → 補足 5.]
 墓所、大社、郷土館、羽咋高校と四か所を廻り終わって時刻は午前十一時半。駅へ駈け戻り、羽咋発十二時ちょっと前の上り列車金沢行きに乗る。この日は、金沢の先、福井、敦賀を経て小浜(福井県西部)まで行く行程を組んでいた。
 羽咋での滞在ほぼ四時間、お墓の前で、其処に眠っている人の縁者と出会うとは、全く予想していなかった偶然の配慮、いや、タイミングの巧みさか、それにしても驚いた。この春洋さんの「甥御さん」をはじめ、レンタサイクルの係の人、郷土館への道案内をしてくれた通りがかりの人、等々、行きずりに接した人々からは、その都度なにか温かなものが感じられた。二〇一二年八月の或る一日、「収穫が重くて、ペダルが軽い」“サイクリング”であった。  

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補足 1. 何故羽咋に。  折口は、一九二七年六月に國學院の学生を伴って、石川県の羽咋郡、鹿島郡へ探訪旅行をした。その後数回この地を訪れ、羽咋一の宮海岸の美しさや人々のたたずまいから「古代」が眼前にあると感じた。更にのちに養子とした藤井春洋の出生地であることからも、羽咋に愛着を覚え、永眠の地と定めたようである。(羽咋市歴史民俗資料館説明、及び、富岡多恵子『釋迢空ノート』、『釋迢空歌集』(岩波文庫))  

補足 2. 養子の春洋とは。  藤井春洋(はるみ)、一九〇七年羽咋市一の宮に生まれ四五年硫黄島で戦死。國學院大學卒業、同大学教授。同大学予科入学と同時に折口の短歌結社「鳥船(とりふね)」に参加。四四年(戦地に在って)養子入籍。(羽咋市歴史民俗資料館説明 ほか)  

補足 3.鎮魂碑と岡野弘彦。  岡野弘彦は、碑の建立に当たり、平田篤胤(あつたね)の国学の教えに従い、師の墓から一段低いところに、師の墓石より一回り小さい形の碑石を用いたらしい。岡野弘彦は一九二四年三重県生まれ。昭和後期・平成の歌人。國學院大學卒業、同大学教授、文学部長、同大学栃木短大学長を歴任。折口の晩年は、品川区大井の折口宅(借家)に同居、その死を看取った。(ウイキペディア ほか)  

補足 4. 「祭り」  折口は一九五三年九月三日に歿した。翌年以降、毎年この日に羽咋の藤井家で「神道による慰霊祭」が行われた。神式の「祭り」は通常、故人の死後五十年まで続けられる。「甥御さん」の云われた「祭りはいつのまにか行われなくなった」ということの意味が、二〇〇三年の五十年祭を以て終了となったのか、或いは最重要関係者の岡野氏側になにか支障が生じて慰霊祭が続けられなくなったのか、詳らかでない。(富岡多恵子『釋迢空ノート』 ほか)  

補足 5. 羽咋高校校歌。  折口が一九四九年七月、墓碑建立のために羽咋を訪れたとき、学校から作詞を依頼され、一年八か月後の五一年三月に歌詞が完成、それに下総皖一(しもふさかんいち、作曲家・音楽教育家・東京芸大音楽学部長)が曲を付け、五一年六月に校歌と定められた。折口作詞の校歌を持つ学校は、全国で三十数校、青森県から福岡県にまで分布する。これら校歌作詞の謝礼金を折口は母校の國學院大學に寄託して、同大学の或る研究事業の受賞者に対する賞金に充当するよう取り計らっていた。(羽咋高校校歌制定由来、『折口信夫全集』新版第二十七巻 ほか)                                    以上