写真は寄稿者のものではありません。

『富士見―「アララギ之里」と「旧サナトリウム」』 
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寄稿 : 佐々木 行(ささき すすむ)さん

富士見高原  旧サナトリウム


六.富士見高原療養所

 富士見駅から県道一九〇号(立沢富士見線)に沿い、中央本線の上を越え北への上り坂を六―七分歩くと、町役場前の十字路に到る。この北東角に白い大きな数棟の建物が建っている。これが、長野県厚生連富士見高原病院、かつての「富士見高原療養所」である。 大づかみの沿革は

 ・大正十五年   (株)富士見高原療養所設立

 ・昭和三年    一旦解散

 ・同年      富士見高原日光療養所発足

 ・昭和十一年   (財)富士見高原療養所に組織変更

 ・昭和五十年   長野県厚生連と業務提携

 ・昭和五十六年  長野県厚生連富士見高原病院開設

となって現在に至っている。この地域の中心医療機関であり、、富士見町の本院(富士見事業部という名称があるらしい)のほかに、諏訪郡原村、諏訪市豊田、伊那市みすずの合計三か所に診療所を持ち、統合された組織として運営している。

七.初代院長 正木不如丘(まさき ふじょきゅう)

 初代院長の正木不如丘(本名は俊二)は、長野県出身、東京帝国大学医学部卒業、ドイツ留学を経て、慶応義塾大学医学部助教授からここへ所長(院長)として就任。医師であると同時に、小説家・俳人ということで多数の文化人と交流があり、その縁故からかなりの数の文人たちが入院し、前述のように、療養所が小説や映画の舞台となって全国的に名が広まった。  現在の第二号棟「富士見町地域包括支援センター」の玄関前の木立のなかに、大きな記念碑が置かれていて、表面には、不如丘の句碑「雨空を/翔ける鳥あり/木の実植う」が、裏面には長文の療養所の「沿革」が記されている。

八.旧サナトリウム

 以前は、現病院本館の裏手北側に旧療養所病棟の本館があり、その東半分が「旧療養所歴史資料館」として保存されており、内部に入って見学することができた(ただし常時公開ではなく申し込み受付による限定見学制)。  私(佐々木)が二〇〇八年初夏(今から六年余り前)に見学したときの状況はーー

一階から二階への階段を上がったところが広い廊下で、突き当たりは昔の食堂。廊下の両側が大小の部屋になっていて、左側は一号室から六号室までの五部屋(四号室は欠)、右側は十七号室、呼吸器科診療室、ナースステーションの三部屋。 このうち、一号室、二号室、三号室、十七号室が、おのおの第一、第二、第三、第四の展示室であった。

 ・第一展示室―療養所の歴史、主なできごと、不如丘文庫

 ・第二展示室―病床(ベッド)実物、サナトリウム全体のミニアチュア、患者の入院記録

 ・第三展示室―当時の建物と職員の写真、療養所を舞台とした映画のスチール写真

 ・第四展示室―著名入院患者の写真、著書、逸話説明 等。

各病棟には「シャクナゲ」「リンドウ」「白樺」などの花や木の名が付けられていた。「桂」病棟には『風立ちぬ』の「節子」のモデル「矢野綾子」(堀辰雄の婚約者)が入っていたそうである。  けれども、二〇一二年九月以降の改築工事によって、旧病棟の建物は取り壊され、その跡には地上四階建ての新病棟が完成済みで、外装その他若干の付帯工事続行中(二〇一五年一月の時点)。  このため、「資料館」はまだ閉鎖されたままで、前回(二〇一四年三月)受けた説明では「一五年秋ごろには再開予定」とされていたが、今回・一五年一月に聞いた話では「資料館=展示室予定場所の内装をどうするか、展示資料をどうまとめるか、等を検討中で、再開時期は未確定」とのことであった。

九.富士見町高原のミュージアム

 富士見駅から跨線歩道橋を渡って徒歩二分、コミュニティ・プラザ内に在る。入口横手に“富士見に生きた詩人”尾崎喜八の詩碑が迎えてくれる。「人の世の転変が私をここへ導いた/古い岩石の地の起伏を/めぐる昼夜の大いなる国/自然がその親しさと厳しさとで/こもごも生活を規正する国/……(略)……(富士見に生きて)」。  一階は図書館、二階がミュージアム。「富士見高原の自然と文学」というテーマで、高原と療養所にゆかりのある文学者・文学作品が常設展示で紹介されている。主なものとしてはーー

 ・富士見野と「アララギ」の歌人たち

 ・富士見高原ゆかりの作家たち

 ・富士見高原療養所を舞台として

 ・療養所の文人たち

 ・富士見に生きた尾崎喜八

 ・そのほか

と、いくつか項目があり、広いスペースに各種の資料、ていねいな解説、映像コーナー等々工夫がこらされている。  また、展示スペースの一郭を使って折々に美術展が催されており、それらを丹念に観ていると予想外に時間が掛かるため、見学時間には多少の余裕を持たせたほうがよい。

十.付言

 以上が富士見高原と富士見町の瞥見である。中央本線の特急「あずさ号」は、一日十数本のうち何本かが富士見駅に停車するので、各駅停車と組み合わせた列車時刻の合間を利用して、公園~旧療養所~ミュージアムと巡ることができる。ここでの“高原と文学”についての見聞は、此の地より少し西の方、諏訪湖周辺での島木赤彦、今井邦子等の文学活動の軌跡を辿るときに一助となる。  更には、東隣の信濃境駅の南方に位置する「井戸尻遺跡群」ほかを訪ねて、遥かな昔、縄文時代の雰囲気に触れることによって、当地探訪の楽しみが一層深まるように思われる。

終                             (二〇一五年一月 記)