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『富士見―「アララギ之里」と「旧サナトリウム」』 
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寄稿 : 佐々木 行(ささき すすむ)さん

伊藤左千夫、島木赤彦、齋藤茂吉、森山汀川


三.富士見高原、富士見町

○ 『富士見高原』

「長野県東部、八ヶ岳火山の南西麓一帯を占める高原。標高九五〇~一四〇〇メート ルぐらいまでの広大な火山原野。空気は新鮮、紫外線も豊かなので高原療養所や原野を利用した乳牛飼育なども行われている。……(略)……中央本線の富士見駅・信濃境駅などは高原の末端にある。」 ―エンサイクロペディア・ジャポニカ、(小学館、昭和五十五年五月)―

○ 『富士見町』

  「長野県東部、諏訪郡にある町で、山梨県と境する。東半は八ヶ岳の裾野で、標高 九五〇メートル、西半は釜無山脈の急斜面。一九五五(昭和三十)年に富士見、本郷、 境、落合の4ケ村が合併して町制施行。国鉄中央東線が通る。広大な火山原野で南方に富士山を望むところからこの名称が生まれた。中心集落は富士見駅前にある。昭和初年から高原別荘地として知られ、……(略)……高原療養所や島木赤彦、伊藤左千夫、齋藤茂吉らの歌碑がある富士見公園、縄文中期文化の代表的遺跡である井戸尻遺蹟などがある。……(略)……」       ―長野県百科事典・補訂版、(信濃毎日新聞社、昭和五十六年三月)―

四.富士見公園への道

 駅前、タクシー乗り場の先に、「文化財案内」板があり、何か所かの地名の最初に「富士見公園 当駅の西方一・七キロメートル……(略)……」という説明が載っている。  湾曲した道沿いの商店街を抜けると国道二〇号線(甲州街道)に出る。交番とホームセンターから少し進んだところが富士見峠の交差点、その歩道橋の上の掲示「入笠山へ一五キロ」を確認して左へ曲がり緩い上り坂にかかる。「白林荘」(大正~昭和初期の政治家・首相であった犬養毅・木堂の元別荘)を通り過ぎると間もなく、右手に小学校、それと向かい合った左手に小さな岡が見えてくる。これが富士見公園、駅からゆっくり歩いて二十五分、途中の横手~背面に八ヶ岳連峰の遠景が大きく広がっていて、素晴らしい眺望である。

五. 富士見公園

まわりを松林の斜面で囲まれた、南北二〇〇メートル前後、東西一〇〇メートル弱の長方形の広場。その北端に建っている公園説明の一部を引用する。  「……(略)……富士見は、「アララギ」にとって記念すべき地となったのである。伊藤左千夫はこの間にしばしば富士見を訪れたが、ここの自然の景観をたたえ、公園の設計を推奨した。これを受けて富士見村では用地を確保、左千夫の構想と村人の奉仕によって明治四四年新しい公園が完成した。……(略)……」   広場のあちらこちら、大樹の根元、草地の盛り上がりのてっぺん、あずまやの脇などに歌碑と句碑とが点在している。  歌碑は四基。

伊藤左千夫  「さびしさの きわみにたえて あめつちに     よするいのちを つくづくおもふ」

島木赤彦  「みずうみの こおりはとけて なほさむし    みかづきのかげ なみにうつろふ」

齋藤茂吉  「たかはらに あしをとどめて まもらむか    ひだのさかひの くもひそむやま」

森山汀川  「かっこうは くにのもなかに なきおりて    あからひくひの いまだしずまず」

 それぞれの碑の建立年月、来歴について細かい解説が付いているが、それはさておき、碑の文字がすべて万葉仮名表記となっているので、読み下すのに難航する。句碑は、芭蕉、名取松丘、丸山ちょんざんの三基がある(碑文は省略)。汀川(ていせん)、松丘(しょうきゅう)、チョンザンの三人は地元出身の歌人、俳人。  どの歌、句とも高原のたたずまいや、自己の心情などを整った語調で詠いあげている。
しかし、茂吉の歌はスケールが大き過ぎるのか、歌に合わせてそれとおぼしき方角を探るも、その山々がほんとうに「ひだのさかいのくもひそむやま」なのかどうかは定かでない。

 この公園一帯は、昔から“芙蓉峰を望む勝地たり”と讃えられていたそうで、私はその名前に惹かれて三度訪れたが、なぜか一度も富士山に対面していない。三回とも好天であったから、雲に遮られてという状況ではなく、私が富士山のきちんと見える位置に立たなかったのか、それとも、歌碑・句碑を確かめることに夢中で、“富士山”を思い浮かべなかったのか、我ながら奇妙な、そして後から考えると口惜しい話である。

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