◆◇◆大阪二景◆◇◆

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うつぼ公園

2013年12月

一.六本の川筋

 靱(うつぼ)公園にある梶井基次郎の文学碑「びいどろと云ふ色硝子で……」(『檸檬 (れもん)』の一節)を再確認したあと、なにわ筋を北へ向かって歩き出した。今から五年前の二〇〇八年三月中旬、午前九時ちょうど。  四~五〇〇メートルで土佐堀川の常安橋、それから西北へ六~七〇〇メートル、 堂島川の堂島大橋を渡り左折、更に下流に進んで大阪中央卸売市場に突き当たった。 宮本輝の小説『泥の河』の冒頭で「堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川とがまじわる所に三つの橋が架かっていた。 昭和橋と端建蔵橋(はたてくらはし)、それに舟津橋である。」と書かれている地点である。

 物語の始まりは昭和三十年代のある夏の日。 この端建蔵橋のたもとにある「やなぎ食堂」の子、八歳の信雄少年は同じ年齢の喜一少年と知り合い友達になる。 喜一の一家(喜一と、母親、喜一の姉銀子)は、数日前突然に現れて、ここより少し上流の湊橋に繋がれた屋形船に寝泊まりしている。  しかし、信雄と喜一が友達でいられたのは二カ月足らずの短い期間に過ぎなかった。

喜一の家族は母親の職業故に(“郭舟”‐クルワブネ‐と呼ばれるなりわい)、川筋の住人たちから冷たい仕打ちを受け、また、彼らが住む「けったいな舟」は同じ場所に二カ月を超えては居られないきまりによって立ち退かされ、 ポンポン船に曳かれて河畔から消えて行った。そして日ならずして、信雄一家も店を明け渡して新潟へ引っ越して行く。  「信雄は……とうとう追うのをやめた。……熱い欄干の上に手を置い曳かれて行く舟の家と、そのあとにぴったりくっついたまま泥まみれの河を悠揚と泳いでいくお化けの鯉を見ていた。」これが『泥の河』結びの一節である。  この間に、馬車引きの男の事故死、ごかい採りの老人の転落死、福島天満宮の天神祭り、二人の少年だけが眼にした巨大なお化け鯉、やなぎ食堂一家の閉店・転地のいきさつ、など川筋に生きる人々の話が織り込まれている。  私も信雄少年になったつもりで端建蔵橋の上に立って左右の川の姿を見ていた。やがて思い当たった。 そうか、作者は、堂島川と土佐堀川が合流し安治川として西流する一方で、 木津川が分岐して南流する、この複雑な川水の会・離の地点に、人々の出会いと別離の場を設定したのか、と。  これまで歩いて来た方向を転じて、昭和橋から木津川に沿って南下した。七つか八つの橋を過ぎたところで、川の西岸に大阪ドームが現れ、その先は大正橋。「昭和」から「大正」へ、 偶然にしては巧まざるユーモラスな逆コース。この橋の下がまたまた奇妙なり。北から南へ走る木津川に、東の方から道頓堀川がぶつかって来て、西の方へは尻無川が分かれて行く、川の十字路となっている。  それではついでにもう一つ“逆コース”をと、道頓堀川を日吉橋から橋伝いに東へ遡る。

どうやら、同じ宮本輝の小説『道頓堀川』(五章)で、 まち子姐さんと邦彦が、行方不明になった仔犬の小太郎を探して歩く道順を逆に追うことになった。  深里橋(ふかりばし)、湊町リバープレイスと過ぎて御堂筋・道頓堀橋に着いたのは午前十一時三十分。六本の川筋と三十に近い数の橋を、北辺~西辺~南辺とほぼ「逆コの字」状に辿ってきた、 距離八~九キロメートル、所要時間一五〇分の川歩きは、一つ一つの川の様相に堪能し、そこに架かっている橋の多さに若干食傷気味となった頃合に打ち上げとした。  わが足の下を流れている川の名前に惹かれて先へ踏み出せば、また違った物語の世界に入り込む。 即ち―上司小剣『鱧の皮』、宇野浩二『清二郎 夢見る子』、織田作之助『夫婦善哉』、更には宮本輝『道頓堀川』(前掲)といった作品群の中に潜んでいる世界である。  その雰囲気の一端を浮かび上がらせるかの如き一句あり。  「行き暮れてここが思案の善哉かな  作之助」(法善寺横丁 正弁丹吾亭前 句碑)。ft   〈註 引用文は『泥の河・蛍川・道頓堀川』、ちくま文庫 に拠る〉


二.天王寺七坂

 地下鉄谷町線の、(一)谷町九丁目駅か、(二)四天王寺前夕陽ケ丘駅 の西の方角、どちらの駅から歩いても十分足らずで、どこかの崖・坂道に達する。  大づかみに云うと、いわゆる上町台地の西の縁(へり)、そこにはお寺と神社、口縄坂を中心とする「天王寺七坂」、「夕陽丘」と呼ばれる町があり、 足を進めるも良し、歩を止めるも良し、訪ねて楽しい一郭である。それに、随所にある案内地図や説明板が親切でとても判りやすい。 「口縄坂」といういささか不気味な名と、「夕陽丘」というきれいな名との取り合わせが面白い。  織田作之助の小説『木の都』はこういうふうに始まる。「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている。 それは生国魂神社の境内の、 巳(み)さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」。XXXXXX  

生国魂神社からスタート、下寺町、生玉寺町なる町名が想像させるように、大小数えきれないほどの寺院が並び立つ間々に、 真言坂、源聖寺坂(げんしょうじざか)、学園坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂(おうさか)と計八つの坂が存在する。 真言坂だけが北向き、他の七つは西向きの斜面である。  このうち、夕陽丘学園横の学園坂は比較的新しいため(とは云っても太平洋戦争の前に造られた)別扱いにされて、それ以外の坂がまとめて「天王寺七坂」と称されている。 一般道路の学園坂と国道二十五号の一部分である逢坂を除いては、おおむね小さな坂であり、斜面の高低差、道幅の広・狭、石段のままのもの、辛うじて自動車が通れるもの、と個々の差が見受けられる。  私=佐々木は前後三度この辺に来ているが、完全に上から下まで通り抜けたのは源聖寺坂と口縄坂の二つ、あとの坂は、上から見下ろしただけ、或いはせいぜい中程あたりまで降りてそこから引き返した程度ですませている。  

天王寺区役所発行(二〇〇六年七月)の『わがまち 天王寺』というガイドマップの説明を借用すると、「上町台地には風情のある坂道が現在も残されている。 この附近には寺や神社が非常に多く、 その名をつけ、あるいは坂の形から真言坂~逢坂と呼び天王寺七坂(ななさか)といわれてきた。」  

さて口縄坂、坂の上には『木の都』の結びの一文を刻んだ碑(後述)と、中ほどには「旧夕陽丘高女」所在地跡を示す記念碑が建っており、他の坂とは一風変わった趣を持つ。  この坂について作之助はこう述べている。 「とりわけなつかしいのは口縄坂である。口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。……口縄坂はまことに蛇のごとくくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。……むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、 その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。」 小説中の語り手「私」は「(天王寺)区役所へ出掛けねばならぬ用向きが生じ……「十年振りに」この町を訪れる。そして「どの坂を登って行こうかと思案した」末に「自然に」口縄坂を通って往復する。 登った坂の上はこういう様子。「登り詰めたところは路地である。路地を突き抜けて、南へ折れると四天王寺、北へ折れると生国魂神社……北へ折れてガタロ横町の方へ行く……寺も家も木も昔のままにそこにあり、……」。  

この短編が発表されたのは、昭和十九年、その時代背景から、「用向き」とは徴兵検査に関係する手続きであったと推測される。ともあれ、 そこに在った女学校にまつわる「私」の思い出や、区役所往き帰りの途上に在るレコード店の家族(店主とその二人の子・姉と弟)とのかかわり、 前触れなしに「時局に鑑み廃業仕候(つかまつりそうろう)」の貼紙のみを残して名古屋へ移住して行ったレコード店一家の悲しいなりゆき、等々が、作者の書き方としては珍しく、 饒舌な会話が出てこない、静かな落ち着いた文章で綴られてゆき、次の一節で終わる。 「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。 青春の回想の甘さは終わり、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」この全文が前に紹介した口縄坂の碑文になっている。  南隣の愛染坂は、大江神社の横の崖で、坂の降り口にある愛染堂への参道にあるのでこう名付けられたという。

神社境内には地名「夕陽丘」に係わる大きな石碑、ただし刻んである文字は「夕陽岡」、傍らには地名の由来とされる、藤原家隆卿(鎌倉時代初期の歌人、 新古今和歌集の撰者の一人)の難波七首の一つ、「ちぎりあれば/難波の里に/やどり来て/波の入日を/拝みつるかな」を載せた説明が付されてある。  私が二〇一三年九月初旬、好天の午後六時頃、口縄坂と愛染坂との間を歩いていた時、右手遠方に沈み始めた太陽が強い残照を放っており、西の空一面が真っ赤に染まっていた。 その色と広がりはまさに壮観、圧巻、これが「夕陽丘」の夕景だったのか、と立ち竦んでしまった。  「七坂」の殿(しんがり)は逢坂、上がり切った交差点の先は四天王寺の西門、その方向と直角に坂を横切って進めば茶臼山・天王寺公園に到る。 以下付言、台地の上に在るのになぜ「谷町」?と謎を抱きながら歩き回る一帯は、「歴史の散歩道」―区ガイドマップの副題―、 見どころ調べどころに事欠かず、またボランティアの観光ガイドさんもスタンドバイしている由と聞いた。

   〈註1.夕陽ケ丘(駅名)、夕陽丘(町名と学校名)、夕陽岡(石碑)と三通りの表記がなされているので、それぞれの書き方に従って記す〉    〈註2.引用文は『夫婦善哉(「木の都」等を含む)』、新潮文庫 に拠る〉

注)写真は寄稿者のものではありません。