火焔樹の下で (No-7)    

2004年7月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 5」「No. 6」「No. 8」「No. 9」 「No. 10」「No. 11」「No. 12」「No. 13」 「No. 14」


( バスの旅―2  )
遠い日の記憶が蘇った。 「おい、サラリーマン起きろ!」私は不覚にも当時の会社のオーナーと2人だけで乗った新オリエンタル特急のコンパートメントの座席で熟睡してしまっていた。失敗した!と思いつつ車窓から外を見ると特急列車はまさにクアランプール駅到着寸前であった。夜10時を過ぎていた。 慌てて身支度をして列車から降りると、意外にも照明がほとんど無くプラットホームは暗闇そのものあった。その暗闇をとぼとぼと10数人が同じ方向に歩き始めた。列車の乗客は我々を除くと観光旅行中の白人の夫婦ものばかりであった。この列車の最終駅はタイのバンコックでシンガポールから丸2日48時間の旅程である。ここクアランプールはその最初の停車駅で、停車時間は1時間あるとの案内にあった。しばらく歩くと前方に灯りが見え、そこからあのマレーシア特有の打楽器の演奏が聞こえてきた。近づくと改札出口の手前に数人ずつの楽団員が両脇に並び歓迎の民族音楽を奏でてくれていた。 あれは1993年のことだった。

(クアランプールまで)
2004年5月、バス旅行はクアランプールの新しい空港への案内板を通過する頃12時前となっていた。郊外のショッピングモールが見え始めると、その商業ビルに隣接して俄に住宅が多くなった。高速道路が片側4車線に広がったのを見つめながら、この高速道路がまだマラッカまでしか通じてなかった頃、夕方にマラッカあたりから戻っていた時の事で気になっていた事を思い出した。郊外もまだこんなに発展しておらず、たしか道の左側にベトナム難民キャンプが鉄条網越しに見えていた。2階建ての壁の無いキャンプから沢山の難民達がじーっと高速道路を見つめ、そしてその階下の雑草も無い黄色いグランドにはたくさんの難民達がうごめいていた。半裸体の子供達も見えた。今そのキャンプは無くなった様だと思った時、それが10年間の変化を表す象徴の様に感じていた。高層ビルが並ぶ辺りにたしかキャンプがあったはずだがと、それがあったと思われる場所の目検討で探しているとバスは直ぐに料金場に到着した。当時でも渋滞のきつい料金場であったが、今は真昼間のせいかスムーズに通過した。そしてバスは1-2分走ってからガソリンスタンドに停車した。運転手は「トイレの方どうぞ」とさけびドア―を開いた。給油をするらしい。しばらく座席に座ったままでいると2列前の老人夫婦が荷物をまとめて席を立つのがみえた。バスを降りた彼らは給油中の運転手に事情を説明し停まっていたタクシーに乗り込んだ。どうやら到着地まで行く必要がなく、勝手に降りてもいいらしいと解った。それを見届けてからバスを降りクーラーで寒く固まった体をほぐしてみた。しかし気温は充分30度を超えている様子ですぐ暑くなってあわててバスに戻る。私の3つ後方の席にブレンダが眠っているのが見えた。どうやら2人か3人の女性だけで旅行している様子であった。3人ともセーターやジャンバーを着て熟睡している様子であった。 10分程停まってからバスは音も無く動き出した。しかし直ぐ初期のクアランプール国際空港の滑走路に並行する頃になって大渋滞の最後尾に着いてしまった。のろのろ運転が続き小さな坂道の向うに中心部の奇抜な高層ビルの遠景が見え始めた頃午後1時を過ぎていた。7時半の出発から5時間半が過ぎた。それでも益々渋滞は激しくなるばかりであった。そして30分どうやらバスは都心部に入り、川と線路を越えやがて60年前元日本軍高級将校専用の日本旅館、(たしか冨士屋か松屋旅館と言う名だったと思う)が道から20段ほど階段の上の優雅な姿を見つめていると、バスはマラヤ鉄道のクアランプール中央駅にさしかかった。モスクの様な簡素な白さに鐘楼を思わせるアンジレーションが美しく調和し、一切模様のない建物はイスラムの白亜をおもい起こす。この古い建物は私がこの街で最も好きな建築物である。私は過去この駅に2回だけ降り立った事があった。1度目はシンガポールからペナンの対岸バトワースまで前述の友人と家族旅行の時、シンガポールーバトワース間の乗車時間は11時間で真昼のクアランプール駅が丁度中間点であった。2度目は「新オリエンタル特急」で夜のクアランプール駅に到着した。

(新オリエンタル特急)
このオリエンタル特急を知ってオーナーに伝えたところ是非乗りたいとの連絡があった。その同伴者も皆の遠慮で私になってしまった。しかし料金を見て驚いた。わずかシンガポールからクアランプールまでの片道料金が確か1等寝室でUS$1000/人 2等US$500 3等US$300位していた。オーナーの希望は1等、しかし予約したところ、1等車席は3ヶ月以上先まで全部満席であった。 やがて受け取った2等寝室のチケットに同封された案内書では夕食はネクタイと上着着用となっていた。料金には飲み物以外の全て料金が含まれていて、車内での費用は全てUS$であると書かれてあった。3食のうち夕食は選択性のセットデイナーで他に座席サービスとサパーがある事も記されていた。 日曜日の午後2人はマラヤ鉄道の「シンガプーラ」駅にてモスグリーンに1本の線が入った車体の列車に乗り込んだ。客室乗務員と話をしている乗客は皆半パンにTシャツ、スーツ姿は我々だけであった。乗務員は1車両に客室4室しかないその1つのコンパートメントの鍵を開けて中に案内した。そこは1面の大窓が見えその直角方向でソファー大の長椅子が1つあった。窓には可憐な1輪の花が花瓶にさされていた。その風景だけでも充分にメルヘンの世界に入った感じがした。ソファーの前は小さなテーブルに衣装入れの棚、そして1番窓際の扉の中はシャワールームになっていた。私にはその客室全体を包むデザインと色調の美しさを堪能しつつ、アガサ クリステイーンの小説の世界にある「オリエント エクスプレス」はこんなに美しい客室だったのだろうかと考えるほど別世界を感じた。これはもう旅行用の列車などと呼ぶものではなく、時間をふんだん使う遊びの列車だと思った。 午後4時定刻通り列車は「シンガプーラ」駅を離れた。直ぐに乗務員が簡単なクッキー類を部屋に運んで来た。早速ビールを頼むとシンガポール国内ではアルコール類の販売許可を取っていないので、マレーシアとの国境を越えるまで待ってくれとの事であった。待ちきれないオーナーに誘われて長い列車の後方車両を目指した。1等車両に入るとその車両はたった2つの部屋しかなかった。完全なスイートでダブルベット付きとなっていたが今はのぞけない。後ろ部分は2つの食堂車をはさんでラウンジ車両があり最後尾にもバー車両がありその後ろ部分の1/3は展望所で屋根と手すりだけの野外になっていた。 私達はジョホールの駅に入ると同時にラウンジ車に戻り、真中に置かれた小型ピアノを見つめながら最初の1杯を注文した。やがて長いスリットの入ったノースリーブのチャイナ服を着たウエートレスが冷えたビールを運んで来た。上機嫌のオーナーと乾杯して2人でこの列車のサービスを絶賛した。それからただただ飲み続けた。ビール ワイン カクテル ウイスキー類のハードリカー そして晩飯 それから最後尾のバー車に行き展望所で又ウイスキーを片手にタバコを吸い続けた。 「こんな会社、社会的使命が無いのであれば、俺はいつでもこの会社を潰す」とオーナーが何度も語ったことだけがいまでも記憶にあった。そしてシャワーを浴びたと言って部屋に戻っていった。ひとり展望車に残り夕日のわずかな明かりの中、まるでマラソン中継車のスピードの様にゆっくり ゆっくり出てくる2本の線路を眺めていた。レールのつなぎ目を渡るコンコンの音が聞こえていた。景色はもう何時間も全く変わっていなかった。列車はまだゴム畑の中を走り続けていた。 酔いながらその言葉の意味を考えていたのを思い出す。

(オーナー高橋昭一氏)
ここまで書いてしまうと、この人のことを避けてしまうことは出来そうも無い。 少し長くなるがご勘弁を。私にとって15歳年上のこの人の影響は今尚大きい。 司馬遼太郎は小説か随筆かでその人が死んでも100年以上過ぎないと評価は固まらないと書いてあった。それはその人を知る人だけでなく、孫が生存する限りその人のお骨は生乾きなのだからと言っていた。この人はまだ亡くなって3年である。だからこれから書くこの人のことは私の偏見だろう。 高橋昭一氏とは失意の人であったと思う。 氏の事を考える時どうしてもその青春地代の背景を考えてしまう。氏の一高 東大期は丁度戦争から戦後混乱期と一致していた。当時の若きエリートと呼ばれた人々の使命感や野望を人々が当たり前と受け止めていた時代だった。氏は良くも悪くもその時代の「エリートの使命」を最後まで持ち続けたと思う。氏は生涯「リーダーとは」と自らに問いかけていた。それ以外は人生上の2の次であった。 父親の経営を引き継ぐことは氏にとってまるで梨園を離れる役者の様に哀れな気持ちだっ たはずである。今以上に当時はまだ大企業と中小企業の格差が歴然としており、大企業の 上に財閥企業、更にその上に役所という上部がある階級社会が色濃く残っていた時代であ った。そこには自他共に認める各界のボス達が存在し日本を実質的に支配していたのだろ う。氏の夢はそう言うボス達を凌駕はともかく少なくても並列して行きたいと思っていた と考えたい。だから世俗的とは言え各界のリーダーへの道を外してしまったと思う寂寥感 は根深いものであったはずである。 しかしその挫折が氏の「エリートの使命」をより純粋で厳格なものにしていった。氏はい ざ中小企業に入りその経営実態を知って愕然とし、その理論性のなさと無原則性を破壊し より大企業並の水準に高める事を自分の仕事と考え実行し始めた。その為にまず社員に会 社の倫理と秩序更に管理職にリーダー意識を徹底的に啓蒙する事であった。 氏のエリートの解釈には一流の大学や企業にいるからその人がエリートなのではなくて、 そこに入るための大変な努力を行なった人だからエリートなのだという意味が高い。 30年も前、その会社に陸上ホッケーの日本代表チームのキャプテンであった男が入社し た事があった。会社員離れした男であったが彼の事を氏に言っても「あいつは俺達と違い 本当のエリートなのだ」と言って全く取り合わなかった事を思い出す。つまり努力の比重 がはるかに重要であった。 「サラリーマンになるのは抜きん出た才能がないからだ。才能が無い者には努力しかな い。」「お前たちはその努力を怠っていた」氏はそう言い続けた。 氏の長く厳しい啓蒙は間違いなく社員に感銘と共にたくさんの経験と知識とを与え、企業 人としての誇りと自覚を与えてくれた。清貧を好んだ氏の関与はそれどころか文化や教養 から人の礼節にまで広範囲なものであった。今考えても氏の啓蒙活動は生涯を通じ激烈で あった。しかし氏の目線はいつも私達を見下ろしていた。 エリートの使命感を持つ立場の者とそうでない者との分類から氏自身逃れられなかった。 氏は自分の会社の全員に自分と同質を求めながら、同時に絶対に自分と完全な同質になり 得ないと信じていた。だから氏は社員に激しく自己改革を迫りながら、愛ではなく哀れみ を与えた。褒めることはあっても尊敬を与える事はなかった。 又愛憎の情が激しく、観念の人でもあった氏は大企業のみが「公」であるとの確信からか、 決して自分の会社を愛する事は無かった。だから激流をもって会社の全てを変え続けなが ら、激しく「私」そのもの様に会社を憎んでいた。会社はもう既に100%氏の意思通り の会社になっていたにも係わらず氏はそれを否定しそう思われることを嫌悪した。 だから多少なりの利益が出ても直ぐ還元を考えた。まるで汚い金を使い切ってしまわない ととでも思っている様に貯める事を嫌がっていた。 それなのに私や会社の先輩から後輩まで何だかんだと思いながら信頼を継続させたのは、氏のリーダーシップを真摯に実践する姿を見ていたからであろう。私達はまるで宣教師の威厳を見つめる土民の様に素直であった。氏は生涯勤勉であろうと努め、公平であろうとした。目標を設定し、規則を作り強引にそれを実行した。常に自分の信念を語り全員を引っ張り続けた。だがその信念を外したと思うと仕事も人も容赦無く切り捨てた。 それでも結局会社は伸び得なかった。今思うとそれは氏の信念が中小企業を大企業にで無く、中小企業的なものを大企業的に変える事であったからと思う。氏にとって中小企業的大企業より大企業的中小企業であり続ける方に価値があった。だが間違いなく時代は変わっていた。実業の世は大企業的大企業より中小企業的大企業に将来性と健全性を認めていた。しかしあえてなお氏の会社は「公」と「本業」で収益性を追及し続けた。結果徐々に発想が枯渇し、抽象化し絶対化した目標は実態との間に歪み様なものが現れて、その自己説明に多くの精力を費す事になった。氏は叫んだ「我々は間違っていない!」。そして 氏は「実」を諦めなおさら「格」にこだわっていた。要は理屈っぽい会社に成っていた。 氏の最後の方に進む。氏が「老い」を感じた時、その頃から氏は自分と会社が一体であると自らに認めたのだろう。だからこそ氏の失意は続いた。長く終わりの見えない失意は徐々に氏の行動半径を狭くしていった。氏は最早書物としか本当の会話をしなくなっていった。人間嫌い的行動が見えはじめ社員とだけの酒量が増えていった。 でも最後まで氏にとって失意は絶望ではなかった。むしろ逆境に耐える精神的支柱を持たない「非エリート集団」が氏の目の届かないところで間違った道や浮利を追う事を極度に恐れた。氏は間違いなく老人性の疑い深く用心深い気質に変わっていった。だから氏は急いで考えられる最善の体制を目指した。そしてその体制案が氏の中で固まったと思う頃、多少リーダーとしての責任感を解いてもいいかなと思いつつ世を去った。

(到着)
バスは渋滞の中をのろのろと進んだ。客が運転席に来てしきりに相談する。やがて運転手 は「(何々)ホテル前に臨時停車しまーす」叫ぶ。大きなホテルの前に停まると半分以上の 乗客がバスを降りていった。それから1kmも進んだところで運転手は諦めた様に立ち上 がり「クアランプール終点!バスはここまで、ここで皆降りてくれ」と伝えた。降りたが 道の真中、周りは空で停車中のバスばかりだった。荷物を持ちバスの間を縫う様に歩いて 行くと行く手に大きく高ビルが見えた。そこがバスターミナル、次の待ち合わせは2時と なっていた。
1993年、そう、あの時展望車から客室に戻るとオーナーはシャワーを終え新しい服に着替えてくつろいで、いつも忘れたことの無い単行本を読んでいた。テーブルには新しいワインのボトルが置いてあった。 私が「え!また飲むのですか?」と聞くとオーナーはニヤッと笑い「馬鹿!お前さんのために取ったんだ。」口調を変えて「まあ6時間も付き合ってくれてご苦労さんでした。もうじき開放されるから、 これ飲んで辛抱してくれ」又口調戻し「俺も付き合うから残さず飲もう!いい旅だった」と言って真面目な顔になった。それからしばらくして眠気と戦っていると軽いいびきが聞こえた。その瞬間私も眠ってしまったらしい。                 
      ( 続く )