火焔樹の下で (No-5)    

2003年11月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 4」 「No. 6」「No. 7」「No. 8」「No. 9」「No. 10」「No. 11」 「No. 12」「No. 13」「No. 14」


(ラマダン-断食)
アパートの前にあるモスクに異変が起きたのは10月の最後の日曜日だった。それから毎日、夕方になると徐々に人々が集まって来た。日が沈むと同時に広い駐車場は乗用車で満杯となり、普段は男だけのモスクがマレー人家族連れで溢れ何か華やいでいる感じであった。連夜夜会が行われた。だがモスクの中は飲食が出来ないらしく、建物の壁に長い食卓が出来上がり、そこはほぼ街中のコーヒーハウスと呼ばれる屋台街の賑わいに似ていた。普段夜には聞こえないコーランの唄う様な朗読がちょっぴり騒音を伴って流れてきていた。そして煌々と電気の光に照らされたマレー人の夕食は10時過ぎまで続いていた。 それが昼間はつばすら飲む事が出来ない断食の1ヶ月の始まりだった。この厳しい戒律の特徴は、自己管理であり、もし自分が掟を破ってしまったと考えた場合、多くは期間が終わった後で個人的に1日単位で断食を行い合計日数を合わせているとの事である。 この断食と言う風習か宗教儀式は昼間の時間が対象で夜の飲食は可能である。しかし元来この期間は断食ばかりでなく目も耳も口も慎むと言う禁欲的な生活も要求されている。砂漠に生まれたユダヤ教 キリスト教にも共通してあるのだが、イスラム教以外はすっかり空洞化してしまっているし、イスラムも断食だけが残ってしまっている。 英語の朝食はBreakfast、Fastの意味の1つは断食である。つまりBreakfastの本来の意味は断食の時間を過ぎた最初の食事となる。英語にもある断食の名残の言葉と思う。 最近知り合いとなったマレー人の男性が思わず呟いた。「断食が始まって1週間目や2週間目は緊張が続いて問題はないのですが、3週間目が1番厳しい。空腹で頭が朦朧とすると無意識に食べてしまう。ひどい時は食べた事すら覚えていなく、家族や友人に言われて気が付く事もあります。」 想像してしまう。夜7時過ぎ、皆でBreakfastを楽しむ。その後眠りにつきふと目を覚ましたとしよう。砂漠と椰子の向うに夜半の月が照っていた。ああ又明日も断食の日々が続く、貧もじさは辛い、せめて今宵この月を観ながら又何か食べよう。月(Luna)を観て明日の朝食までの食事Lunchとなったと言うのはどうであろうか。 ついでにDinnerも全く解らない。ただDinnerはDonorと似ている。多分労働の後の賄い食が語源であったと思いたいが勝手な想像。だからなのか今も休息日-日曜日-の夕食は正式にはDinnerと言わないらしい。 このイスラム教がマレー半島に定着したのは13世紀後半との説が定説である。海のシルクロードと呼ばれたアラブ人の来訪は7世紀とか8世紀と言われているが、イスラム教は根付かなかった。マレー半島は農耕地に適する肥沃な土地が少なく、その為人口も少なかったから布教の速度がゼロに等しかったらしい。 ではその当時このマレー半島にマレー人以外に誰がいたかと言うと、原マレー人やインド人との混血が主体の中で既に貿易に従事する誇り高い中国人がこの地にいた。

(Mr. Kohとの食事)
駐在員時代に比べると、ローカルの中小企業の経営者や管理者との付き合いが殆どになっている。彼らは昼食を共にするが、夕食はまずしない。そんな1人にコーさんがいる。50歳台半ばで自分がオーナーの乙仲会社は娘にまかせ、自分はアモイの方で松下モーターの携帯用振動モーター量産下請け工場の責任者をしており、月末から次月初めだけシンガポールに戻っている。コーさんの世代で製造業に携わる人の殆どは日系企業勤務か取り引きの関係を経験している。彼も精工舎最初の現地雇いの技術者で、最初の社内留学生として1年間日本に滞在し徹底した技術を叩き込まれている。 そのコーさんにニョンニャ料理を食べましょうと誘われた。ニョンニャ料理とはどんな料理なのか解らないままに、東海岸に広がった昔からの旧市街地に連れて行かれた。 この辺は元々マレー人の村があった所だと言われて、20年前の記憶を思い出した。 「昔この辺で椰子酒を飲んだとおもうのですが」「そう、この辺は椰子酒作りが沢山ありましたが、今はもう1軒もありません。あれを好む人の殆どが肉体労働者でしたから。」あのどぶろくが腐った様な匂いとぴりっとした酸味の強い酒はもう飲めないらしい。 間口が10m位の極普通のレストランに入る。最初は南部中国料理の店との差が解らないが、よく見ると壁に旧いセピア色の写真が沢山あり、20世紀初頭のマレー半島のいずれも中国人とマレー人がミックスした様な結婚式や家族の記念写真であった。「ニョンニャとはマレー語で中国人とのあいのこの女性の意味です」「バアバと違うのですか?」「同じです。バアバは中国語です」 イスラム以前中国から出稼ぎや商売をしに来た男達はマレー人の女性を現地妻にし間に子供が生まれた。その子供達は中国人社会にも入れずマレー人社会にも入れずの状態になってしまう。そうして特に女の子はマレー人が多い世界で結婚の機会も殆ど無く、未婚のまま人生を終わった。 カラユキさんの話がある。日本の若い女性が沢山マレーシアや東南アジアに売り飛ばされていた時代があった。江戸時代の終わりから明治にかけて、主に西日本の女性が犠牲になったが、その背景には意外にも当時若い女性の家出のブームがあったらしい。理由は「カマドの前しか知らない女」と言われるがいやで社会経験を積もうとか親の苦労を助けたいとの理由がそれであった。それは丁度シンガポールの英国経営が始まったとほぼ同時であった。140人の寒村であったシンガプーラ島に毎日船で数百人から1千人の苦力が運ばれてきた。マレー半島から仕事を探してマレー人も大挙してやってきた。その99%が男であった。不足する女性は盗み出すしかなかった。 苦界にあった彼女達の絶望を超えた最後の望みが現地人との結婚であったかもしれない。しかしほとんどは絶望の果てに病死していった。 幸か不幸か現地で身売りの様な結婚をした女性も少なくはなかった。しかしその結婚も相手はほとんど貧しいマレー人であったと言うが、それでもなお正婦人ではなかった。従いその結婚のほとんどは宗教的にも社会通念的にも違法な婚姻であったのであろう。ではニョンニャ女性は何故その道を歩まなかったのだろうかと思った。
「ニョンニャ料理の特徴はマレー食材を香辛料と中華風の味付けをしたもので、食材が独特なのです」確かにジャックフルーツやみかん系の不思議な食材と匂いのきついものが多い。無論魚も豚料理もあり皆辛くはっきりした味であった。 「永い間ニョンニャ達は男たちに混ざって、肉体労働や行商で生活の糧を稼いでいたので、食べ物も段々味が濃くなってしまったのです」 ミシシッピー河の労働者か奴隷の間で始まったと言うカジャン料理を思い出した。彼らの食事も粗末な食材(それも豆や米がほとんど)を香辛料で食欲を誘い出していた。 「ニョンニャ達は気位も高く貞節ですが、当時の差別意識が結婚を阻害しました。それはニョンニャ女性が正式な婚姻しか望まなかったからと思います。しかし結婚するとニョンニャ達は一生懸命に子供達を育てましたから、シンガポールの著名人にはニョンニャの末裔も多いのです。リークァンユー(初代首相であった)の母方もニョンニャです」 レストランの壁の写真を眺めていて旧い記憶が蘇って来た。そうだ1980年代の初めに時々、中国人女性特有の体にぴったりした真っ黒な労働衣に赤い前掛け、つばが広く綺麗な頭巾を被っていた女性が道路端の工事現場で働いていた。あの人達がバアバ(ニョンニャ)だったのだと思い出す。 「ところでコーさん、男の子の場合はどうだったのですか?」「はい男の子は自分の後継者ですから殆どの場合中国に連れて帰りました。」

(バタム哀歌)
~今日も空にはアドバルン さぞかしバタムじゃ今頃は お忙しいと思うたに Ah Never the less, never the less. Don稚 you know? Im angry, Im angry. Its very very naturally~
シンガポールから真南に20km、インドネシア領のバタム島がある。この島を始めて訪れたのは1983年頃であったろうか、島西部の港に降りた時に激しいカルチャーショックを受けたのを覚えている。シンガポールとの最大の落差は人がいない事であった。 やせ衰えた土地は椰子やゴムの植樹にも不向きなのか、背の低い潅木に覆われて延々と続いていた。その島唯一の街であるナゴヤを目指した。その街の手前にある丘の上にドラム缶が4-5本野ざらしになっており、そこがこの島唯一のガソリンスタンドであった。停めたタクシーの為にドラム缶の上に刺さったポンプでガソリンを四角い枡に汲み入れて運んできた。坂を下ると元日本軍の部隊が駐留し出来た名前と言うナゴヤに入った。わずか1本の通り道に日本の終戦直後にあった闇市の様な粗末な1階建てでコンクリート剥き出しの商店街(それも衣類を販売する店が多い)が100mほどあった。街と言える街はそれだけであった。逃げたくなる様な高温多湿がバラック街を覆っていた。更に日常的な停電が街全体を哀れにしていた。そのバラック通りの東側の丘の上に西洋風な小さなホテルがありそこでコーヒーを飲んだ。暑さは変わらなかったが、そこ以外に1軒のレストランも無かった。その後そこから更に北に進むと唯コンクリートで平らになっているだけの港に出た。そこからシンガポールの高層ビル群が海の中から蜃気楼の様に林立していた。早く帰りたくなったが帰りのフェリーは夕方までなかった。他に客も無いらしく、当たり前の様にタクシーは私の前から離れずに停まっていた。 そして20年後、当時8万人と言われた人口は10倍になったらしい。当時のままの島東部の港に降りると、満員の乗客が入国審査で永い列を作り、建物の外にはタクシーや送迎バスが広くない送迎広場に並んでいた。排気ガスの充満する中をタバコ売り達が執拗に売り込んできた。それを避けるように車に乗ってナゴヤに向う。大小の交通渋滞は至る所で発生、ナゴヤへの道の両側は山肌が皆茶色に剥き出しとなり、まだ舗装もされていない道ができ、その横に商店付きの6-7階建てのアパートがけばけばしい色で立ち並び、更に次から次と作られている。何処を走っているのかと思ううちに、なんとなく車が動かなくなったのでナゴヤに入ったと感じるほど、街は全く新しい街に変貌し、全く昔のイメージからかけ離れてしまっていた。 この変貌を作り出した立役者は間違いなく日系企業である。取引先や下請け企業を含む日系企業の現地雇用者数と家族は、たぶん島の人口の50%以上を占めるのではと思っている。そしてそこで働く日本人は約200人 99%駐在員で99%男性で99%単身赴任である。まるで平成の苦力の状態にある。 そのナゴヤの一角に「和(KAZU)」という日本食のレストランがある。そこの支配人が今回私が仕事を始めるに当り、親身になってお世話頂いた栗原さんある。 栗原さんは毎回の訪問時、私の為にバタムに在住の日本人を招いて少人数の会食会を開いてくれる。最近は新たな企業合併の花盛りで、時折そんな真面目な話もあるが、大抵はたわいも無い世間話が延々と続く、そんなある会食で以前に栗原さんから紹介されていたHさんが、少し遅れて飛び込んで来た。イニシャルにしたのは、話の展開では実名がきわどくなる予感がする為である。 このHさんもバタムでは有名人の1人であり、ホテルに長期滞在しながら米こうじを使って部屋でどぶろく作りなどをしている。味を聞いた事があるが、常夏のため発酵が早く数時間単位で発酵度を調べなくてはならないそうで、ちょびちょび味を確認しているうちに大概は熟成する前に無くなってしまうとの事であった。 Hさん「栗原さん、日曜日の送別コンペのパーテー覚えています?」「覚えているも何も、めちゃくちゃ酔ってしまい、タクシーに乗ったまでは覚えているが、後は朝ベットに無事寝ていましたよ」「そうでしょう、32人のパ-テーで真露の韓国焼酎のボトルが3ダース、日本酒の1升ビンを6本全部飲み干しちゃいましたから」Hさんの言葉は少し心地良い方言の匂いがある。 「栗原さん、あの時写真撮ったんですが覚えています?」「覚えているよう、偉い事になったと、年寄り同士でしゃべっていたんだが、その相手がいざ写真撮ろうとなったら、気合が入ってすぐ上半身裸になってしまったから、びっくりしちゃった」「実はその写真を撮ったのが、この私なんですが、全く撮った事を覚えていないんです。」「なに言っているの!まず自分で全員を撮ってから、嫌がるウエートレスに無理やりカメラを押し付けたじゃないの」「そうですってね。後で撮った写真を見て解りました。2枚目にちゃんと1番前に横たわって写っていました。」「でも栗原さん、私はその後の事は良く覚えているんです。幹事でしたから。すごいでしょう?」 その幹事のHさんが目撃した惨状をつぶさに語った。 「お開きの後、某氏と某君が並んで部屋の隅のフロワーで自分が吐いた汚物にまみてれ転がっておりました。助けるのに苦労しました。2人の周り半径50cmがへどで汚れているんです。後数人はテーブルに伏せた様な格好で気を失っていました。その後女将に店の汚し代も払って最後に店を出たらAさんの運転手が「Aさんが出てこない」と言うので、2人でAさんを探したんですよ。そしたら向うの方で・#12527;ア!人が死んでいる・#12392;叫ぶんで、行ってみるとAさんがうつぶせの状態でどぶにはまったまま寝ていました。抱き起こしましたがその臭い事臭い事。しかしAさんは最後まで正気に戻りませんでしたね。その後2次会のカラオケに行きましたが、来たのは私1人だけでした。」 そう、栗原さんやHさんとあと2人位で、自ら達を「妖怪倶楽部」員と自称している意味が解りかけてきた。「佐藤さんも資格充分ですから、入れときました」
A4に上下2枚でプリントされたデジタル写真が回って来た。見るとレストランのテーブルとテーブルの間に全裸や半裸の男供30人位が思い思いの格好でこちらを向いて写っていた。何となく強制収容所の内部の様な、又やせた胸に中年の悲惨さがよく出ていた。更によく観ると日本有数の大手電子メーカーの現地社長の顔もちらほら、さすがに局所はHさんがピンクの丸のぼかしを入れたとの事であった。 折から日本の留学生が中国で猥褻的ダンスをした為それを見た中国人が反発して抗議デモに発展したとのニュースが出た事もあったが、この話はたまたま日本人以外には広がらなかった様子である。韓国人の女将も咎めなかったとの事であった。 俄然元気が出て来た栗原さんが言った。「いやあの送別会は盛り上がりました。ところでこのKAZUも開店3周年が過ぎましたので、恒例の第3回KAZUコンペをそろそろ始めなければならなくなりましたから、表彰式と宴会はここでやりましょう。Hさん又気合を入れて又無礼講で皆スッポンポンにしてしまいましょう。」 目つきは恐れた通りW大応援団員の昔に帰っていた。「ね!佐藤さん!」