火焔樹の下で (No-4)    

2003年10月

寄稿 : 佐藤之彦さん 於:Singapore


「No. 1」「No. 2」「No. 3」「No. 5」 「No. 6」「No. 7」「No. 8」「No. 9」「No. 10」「No. 11」 「No. 12」「No. 13」「No. 14」


8月半ば頃のことであった。ある朝ベッドから起きて、左足を1歩動かしたとたん、背中の腰の部分に激痛が走った。それからかがもうが、座ろうが、背伸びも回転も、何をしても蝶番(ちょうつがい)が外れてぶつかりあっている痛みでにっちもさっちもいかなくなってしまった。 しかたが無くベッドに戻って仰向けに横たわった。まずこんな時リタイヤした強みと言うか、誰に遠慮も無く休む事が出来るわいと妙に感心をしてしまった。全く人生みたいなものがすっかり単純化してしまい、やっているふりなんか何の意味ももたなくなってしまっている。痛くても仕事をするか否かは自分で決めればよかった。休むという事は、その日の仕事の進展が100%無いとの意味であった。 そう思うと、今回シンガポールに向かう飛行機に乗り込んだ時の妙な実感も思い出して来た。あの時、生まれて初めて全く自分の都合で飛行機に乗ろうとしていると感じた。無論誰の命令でもない。それどころかこれから向う先には、誰一人私を待っている人はいない。自分を必要としている人もいない。何の予定もない。住む場所も無い。あの時ふと思ってしまった。だったら何で今日と言う日に飛行機に乗らなければならないのか?やめて神戸に戻っても誰にも迷惑がかからないと。そして大阪を離陸した瞬間これで「素浪人」なったと感じていた。後は自分の愚才と運とが道連れだと。 そしてシンガポールに着いたとたん、イラク戦争が勃発、更にSARS渦に直撃された。自分の運もこんなものかとあきれてしまった。
うとうとしていると3階下の路上に車の止まる音し、小さな声が聞こえて来た。妙な胸騒ぎを感じた。大家の孫達は何時も声が先に着いた。 やがて階段を上がりながら「アンカー」「アンカー」と怒鳴る2部合唱を聞いたとき、これから起こる事態を心配し始めた。やがて玄関に到着、鍵が開くと同時にピタポタと走る音がし、数秒後5歳の男の子が部屋の前から顔を出した。「おお!」と餌を見つけたハイエナの様な声を出した。そしてその肩の下からおかっぱの顔が出た。兄の真似をして大げさに「おお!」叫び、一瞬で2人は消えた。やがて大家のおばさんがびっくりした顔でどうしたのと聞いてきた。 事情を説明すると「解ったわ、これから姪に電話して良いお医者さんを紹介してもらいましょう。多少高くても名医に見てもらって確実に直すのが結局1番いいの」。そう彼女の姪の旦那は医者だったと思い出した。それから孫に向って「アンカーは病気だからリビングで遊びなさい」と命じた。そんな言葉が通じるガキ共で無い事は先刻承知である。 「アンカー、僕ヨーロッパから戻って来たんだ。この飛行機に乗って」と言ってゴム製のタイ航空機のおもちゃをみせた。やがて掃除機の音が聞こえ始めてから、おばあちゃんの哨戒能力をチェックするように、度々領土侵犯を繰り返した。ものの5分位で大胆になりその飛行機を片手に持って、「ブーン」と唸りながら私の周りを走りはじめた。しかし直ぐ飽きてきた様子でちらちら私の顔を盗み見るうちに、やがて本格的な挑発行動を取り始めた。民間旅客機の機長から戦闘機のパイロットの目に変わって、タイ航空の飛行機はとうとう自爆特攻の体制で音速に近いスピードで飛び込んできた。当る寸前身構えようと筋肉を固めたとたん、その日最大の痛みが腰を貫いた。みもだえた私を特攻効果と勘違いしたパイロットは意外な効果に気を良くし直ぐに第2弾の攻撃を開始した。 今度は筋肉を固めず手で特攻機を振り払うと、怒ったパイロットは体ごと飛び込んできた。第2弾の激痛、すばやく離れ様とするパイロットを取り押さえようと仰向けを横向きに移す時またまた第3弾の激痛。生き絶え絶えで一言「タイ航空のスチュアーデスは美人だったろう?」ぴたっと攻撃が止まった。 「アンカー タイ航空の女性はものすごくきれいだったよ」「1番の美人はどうだった」歳の差55歳、でも共通の話題があった。しかし経験不足か直ぐ動くものに興味が移動してしまう。もう少し重要な女の問題を真剣に話し合いたかったが、既に窓の外の大型クレーン車に興味が移っており、恐れた通り又攻撃態勢に入っていた。数度の波状攻撃の後、今度は部屋の外から加速をつけて体当たりしてきた。「保護者よ 仕事を止めてここに来てくれ」と祈りながら激痛と戦った。そして再度外からの体当たり攻撃に備えようとしてハッと。何時の間にか後ろに回っていたおかっぱ頭の赤い小型機が無言で無防備な背中を狙って加速をつけて回転し体ごとジャンプして来た。当ったとたん骨が砕けたと薄れそうになる意識のなかで思った。そこにすでに防衛能力を失った表面からお兄ちゃんも。
大家の横に静かに立っている孫達を見てまず。「お利口さんだったでしょ?今ねマウント エリザベス病院の予約が取れたから、午後からいってらっしゃい。この医者は名医2人の1人でもう1人の方は予約で満員だそうだから。」 11階、「正骨之美」と書かれた掛け軸が飾ってある待合室は明るく20席ほどの快適なソファーが並んでいた。大きな受付カウンターには3人の女性がいた。チェックインしてから20分、名前を呼ばれて立ち上がり診療室に入ると、5m四方の中ほどに幅1.5m横2mの磨き上げられた机がありDr.郭が白衣も着ず座っていた。求められて一通り説明をすると、レントゲンを撮って来いと言われ、また1階まで戻った。レントゲンはレントゲン専用の1医療機関であった。 紺のアパッパー衣を持ったマレー系の看護婦に「着ている物を全部脱いで、これを着てちょうだい」と言われ、デパートの試着ルームの様な狭さで着替えた。直ぐまた呼ばれレントゲン室に入る。先の看護婦がレントゲン台に横たわれという。寝て待つと「何も身に着けてないわね?」と言いながら私の股座をグイと握った。この立場が反対であったら、今ごろ私は警官に銃を突き付けられて豚箱行きかと思っていると、何故かまたグイ ギュと来た。 3枚ほど写真を撮って着替えるともう現像が終わっていた。受け取りカウンターに行くと料金70ドル。それを持って又11階のDr.鄭の診療所に戻った。Dr.鄭の説明では多少慢性化しているが、大事は無いとのこと。治療は注射を打たれて終わり。カウンターで薬を貰って支払いを見ると200ドル、3日おきに来いと言われた。 それから2週間せっせと通うが全く良くならない。治療費だけはあっという間に1000ドルを超えてしまった。ジョブレスの身に1000ドルはこたえた。
ある日また大家に相談すると、中国針灸を受けてみるかと提案されそれに飛びついた。 「私はお葬式に行くので同行出来ないけど、解る様にしてあるから」「誰が亡くなったの?」すると大家は何故か言い難そうにしてから、ふっと言った「老いたムンク(僧侶)で私の父と母も彼のお経で葬儀をしたの。でもね、その僧侶は死ぬ3日前にキリスト教徒になったの。ファニーでしょ?でも彼の家が代々仏教寺院であったので、彼は抵抗出来なくて僧侶になったが、いよいよ死期が迫った時、どうしても洗礼を受けたいと頼んだのよ。そして結局皆彼の希望を受け入れたらしいの。仏教は民主主義的宗教だからね。」 大家の父母があの世でどんな風に、この元僧侶も迎えるのだろうか?余計な事だけど気になってしまった。 ある落語を思い出した。「なあ同僚、こうやって毎日毎日仕事とは言え、亡者共を針の山に追いやり、煮え湯を飲まし、生皮を剥ぎ釜茹でや血の海に突き落しているけれど、俺達あとで本当に極楽に行けるのだろうか?」
今度はジュロンと言う島西部の公団住宅の中にある中国薬局の中にあった。見事なほどの漢方に囲まれたカウンターに行くと、どうやら大家から連絡を受けているらしく直ぐ13の番号札を渡された。待つ間ありとあらゆる匂いがする店の中をのぞいて見た。ヤモリやハエ(か?蜂)のミイラから始まり、ミミズとサンショウウオの乾燥死体がばらばらに100個位、うじ(か?蜂の子)の干物、50年ものの梅干みたいや黒光りする杏の煮つけに朝鮮人参の数々、更にはトクホン ビゲンに中国茶が山のように積まれていた。やがて狭い薬局をベニヤ板で仕切ったドア-の上に13番の番号が点った。安食堂によくある様なトイレ風のドア-の中に入ると7の字様な狭さ。ドア-の横にステンレス製の安机が受付の様にあり、初老で眼鏡をかけ白衣の男性が顔の80%を覆うマスクを着けて座っていた。横に座って腕をだす。手首に指2つを乗せて脈拍を計り、それから舌を出せと身振りで示した。 壁には免許の類や白黒の卒業写真の類が至るところに貼ってあった。アモイ中華医療大学とある書類をながめていると、「ハロー」突然その男は挨拶してきた。私も軽く「ハロー」と答えると、苛立って「ハロー」と強めに言ってきた。私は当惑し彼が何て言っているのか考えて黙っていると、又「ハロー」と言った。その時How Longと言っていると気がついた。「な、なんと粗雑な英語 俺のレベルと一緒か」と思った。ところが先方はそう採らなかった「こいつ、全く英語もだめなんだ」。彼は殆ど無口になり、細いベッドの上にうつぶせに寝かせつと早速鍼を射ち始めた。背中の腰の部分と両膝の後ろに合計10本位である。特に痛さは感じない。その男の机を寝ながら何となく眺めていると机の上に3インチ位の白黒モニターがあり、薬局のカウンターの内部を映していた。そこは彼の奥さんの様な人が画面に出たり入ったりしていた。やがて暇な頭に変なイメージが入ってきた。どう考えてもあの男のマスク姿はスーパーに出刃包丁を持って入る賊そのものに見えた。 賊がモニターで人がいなくなるのを待って、すばやく金庫を盗み、又知らぬ顔で治療にあたる。それをたまたま目撃した私は......。 「OK」とだけ言って男は次の患者と向き合っていた。鍼の後は1分位マッサージがあり、その後何か熱線を出す機器を使って腰を熱くさせて、トクホンみたいなものを貼って終わった。こんな事で腰痛が治るのかと不思議に思えた。 ドア-を開けてハッカの匂いが強い薬局に戻ると、カウンター越しに奥さんの薬剤師が私の顔を見て「イングリッシュ マンダリン フッケン?」とおせんにキャラメルみたいな聞き方をした。何語をしゃべるかと聞かれているなと思っていると、奥さんの方は「やっぱり亭主が言った通り言葉はだめなのだ」と思ったのか、すぐ薬袋を私に示して、印刷された文字の中に手書きで書かれた6の字を指差し「これ6 シックスOK?」。呆然とする私に今度は中国式に指を折って「6 OK?シックス」といつのまにか英語が解らないのから文盲者あつかい、その次は3の字を示して「これはスリー、あれはシックス OK?」。1日3回6錠ずつの意味らしい。それにしても久々に6と3の数字まで教わって偉くなった様で幸せな気分になっていると、奥さんは薬を渡し電卓で35ドルを見せた。確かに彼女の指だけでは足りない数字であった。恐る恐る袋の中をのぞくと、極普通そうな錠剤2種類であった。 それから2週続けて土曜日毎に通院した。中国医の男はさすがに私が英語を全く話せない馬鹿ではなく、ちょっととろいだけだと正確な判断をしてくれたが、奥さんの方は第1印象が定着している様で、私に薬をくれる時だけは他の人と話す何倍も声が高くなった。しかし善意がこもっているから腹は立たない。3回目はとうとう耳も悪いと思う様になったらしく、正面からでなく耳元で怒鳴る様になった。それが億劫になってしまい、通院を打ち切った。
9月マレーシアの首都クアランプールに出かけた。飛行機代を節約するため、タクシーで国境を越えジョホール州の空港から国内便を使った。朝8時20分発に乗るため、国境の混雑を避け、朝5時半の家を出た。更にシンガポールのタクシーはジョホールでの営業が出来ないため、国境を過ぎてからマレーシアのタクシーに乗り換え6時半頃空港に到着した。狭い空港では数人の乗客が睡眠中であった。チェックインカウンターには人もいないし電気もついていなかった。たまたま通りあわせた職員風の男に聞くとチェックインは7時半からだと答えた。テロ下のアメリカで慣れた私には1時間以内のチェックインが不思議に思えた。「ここは地の果てマレーシア」と鼻歌が出て来た。仕方が無く縦100m位の建物を歩いていると、喫茶店風の店がちょうどオープンした様子であった。 プラスチックの袋に入ったアンパン2個RM(通貨の単位リンギット)1.60x2とコーヒーを頼むRM1.2と書いてあった。愛くるしいマレー娘の従業員は電卓を入れて私に見せた。なぜかRM8.40とある。高いがS$にすると4ドル程度。昨夜両替したRM50札と50セントを渡す。彼女は盛んに電卓を叩いて計算をした。お釣りが無いため男の従業員のお金も借りて払ってくれた。数えると47ドルある。多いよ、と言うつもりで1枚1枚彼女の前で数えてみせた。7枚のRM1札をみせると、彼女はアッと言ってその中から1枚を取り20コイン2個を置いた。私は混乱してRM8.40だろと聞くと、彼女はRM4.70だと言う。すると私は50.50-4.70と言うマレーシア人には絶対に出題してはいけないと言われている分数の問題を出してしまったと知った。私のミスであるから、せめて正解に近いつもりでコイン2個は受け取らなかった。「サンキュー」微笑んだ顔を見ながら、そうだ今度あの中国薬局で何か分数になるものを買ってみようと思いついた。あの小母さんどんな説明をするだろうかと思って気がついた。何時の間にか腰痛が治っていた。