写真は一部寄稿者のものではありません。

縄文住居
『縄文から学ぼう』 
『ページ5 縄文と古層の神を訪ねて その1』
寄稿 : Mr. Tom Ito
『ページ1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ2 縄文と翡翠と三種の神器』 『ページ3 韓国~日本との繋がりを訪ねて』
『ページ4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』 『ページ6 氷川神社~古層の神を訪ねて その2』


古代人の精神はあの世とこの世をつないだままの状態である。人の力を超えた存在が精霊・タマであり、神々の奥に古層の神が存在する。 これは民俗学者の折口信夫の見解の一部です。 私は折口先生の感性と洞察力の素晴らしさに感銘を受けています。古層の神を探しに、そして隠された古代史の発見に奈良の三輪山とその近郊にある遺跡の見学に行きました。
⚪️縄文時代の奈良盆地

縄文中期の海進は奈良盆地に大和湖と呼ばれた大な湖があり、湖の中に二等辺三角形に配置された天香山、畝傍山と耳成山が湖の上に顔を出していた。岸辺にはピラミッド状の三輪山があり素晴らしい眺めである。 感動を覚える景色だけでなく、ここで生活を営むに十分な要素もあった。


  • 薬井戸に代表される湧水があり生活に不可欠な水の確保が出来た。
  • 森からの食料 も確保でき、必要に応じ人口栗林も作った。縄文晩期の2800年前頃の栗林の痕跡が橿原市の遺跡から出ている。
  • 大和湖に動物が水を飲みに来るので、獣道に落とし穴を設けた狩猟も容易に出来た。
  • 湿地に米、麦、豆などを栽培していた。品種改良も行っており、翌年に植える大豆は大きなものを植え、次の年もさらに大きなものを植えて品種改良していた。
  • なだらかなスロープの水害を避けられる安全な場所に住まいを確保出来た。
  • 奈良盆地を覆う大和湖から魚も獲れた。

    当時の主食は栗、胡桃、ドングリなどの堅果類で、西国地方は照葉樹林が多く堅果類が育ち難い。しかし縄文人の知恵で栗の植林をしてドングリを育て食料を補っていた。 しかしながら、人口は堅果類が豊富な関東以北に比べると少ない。

    縄文中期 近畿地区 2800人 に対して関東地区 95000人
    縄文後期 近畿地区 4400人 に対して関東地区 51600人

    ピラミッド形状の三輪山は縄文時代から人々の崇める山であった。三輪山は秋田の黒又山の様に人の手が加えられていた形跡はないが、当時から信仰の対象であった。 しかし今 考えられているような磐座信仰、大物主を御神体とする山ではありません。この信仰は古墳時代になり、当時の王権により造られた信仰です。 縄文の信仰は、恵みを与える自然、脅威を与える自然、美しい自然に畏敬の念を持ち、崇拝する原始信仰です。人が神として崇められたり、神が存在するのは、後のことです。

    晩期に作られた橿原市出土の土偶から当時の生活環境を推察したいと思います。 縄文晩期に作られた遮光器土偶とその類似土偶は東北地方全域から出土されており広範囲に及んでいるに対し、同じ晩期に作られた橿原市出土の土偶は耳や口のみで顔を簡略に表現する土偶はこの地域の特徴であり、背面下をくぼめて臀部表すのもここ特有の表現である女性像です。ここの土偶から感じることは時間の余裕がなく、他の地域との文化交流が少なかった地域のようだ。 あるいは、早い段階で渡来人との交わりがあり、縄文文化を残しながら渡来系の生活になっていたかもしれない。

    縄文の狩猟採集は農耕社会に比べて時間に余裕ある社会であり、それ故に華麗な土器や土偶が作られた。奈良地域の縄文後期は次にくる水田稲作の弥生に近い農耕が主流になりつつあった社会かもしれない。 農耕を中心とした生活では時間的ゆとりがなくなり、それが土偶に表れているように思える。

    瀬戸内との交流は当然で、日本海地区との交流も若狭湾から深坂山峠を越えて琵琶湖に入り、川を利用して簡単に行き来ができた。縄文時代は我々が考えている以上にダイナミックな物流社会であった。富山の糸魚川でとれた翡翠は日本全域に流通しており、奈良においても翡翠の装飾品が出土している。
    ⚪️山辺の道

    山の辺の道の海抜は約60メートルです。奈良盆地にあった湖、大和湖の水位が高い時に作られたためです。作られた当時の労働人口を考えると、今のような道らしい道ではなく、獣道に近い道だったと推察します。縄文の集落は三輪山の麓と石上神宮の少し北にあり、集落と集落をつなぐための道であったと推察する。アク抜きなど人々が集まり共同で行う作業の為かと思われる。 縄文時代に作られた小さな道が弥生・古墳時代を経て改善され、今のような道になっていった。 縄文人は海洋民族の末裔でもあり、磨製石斧でカヌーを作り、驚くほど広範囲に動いていた。
    ⚪️縄文人の生活環境の変化

    吉野川流域に、6500年前 縄文前期から集落が形成されており、弥生時代まで継続的に住んだ痕跡が見られます。水稲には不向きな地形で継続的に狩猟採集の生活を続けられ、矢じりは狩猟用の小型のものから、殺傷する武器としての大型な矢じりも遺跡から出土し、弥生時代には外敵に対する環濠も作られていた。 奈良盆地にあった大和湖は縄文中期以降 水位が下がり縄文後期においては、現在の奈良盆地とあまり変わりない状態であった。

    我々日本人は従来から住んでいた縄文人と大陸から来た渡来人が混じりあってできています。縄文系が色濃く残っている人、渡来系が色濃く残っている人、人さまざまです。 古代史時代においても同じで、色々な文化・異なる歴史を持った渡来人が縄文系と融合したり、又渡来人が縄文系と融合せず、殺戮や追い出しています。 縄文系と渡来系が早くから交わり生活していたグループの代表は出雲族で、縄文人と交わらず縄文人を殺戮したグループの代表は大和族です。 島根県の弥生時代の青谷上寺地からの人骨のDNAを分析した結果は縄文系が大半を占めました。 この結果が出雲地域においては、渡来系の人々と縄文系の人々が交わりあい共に暮らしていた証拠です。

    青谷上寺地の分析前にも、出雲には縄文系のDNA D1bが多いことが知られています。山陰山陽地区てズーズー弁が使われているのは出雲だけです。ズーズー弁は、ひょっとしたら、縄文語と渡来語のミックスから生まれ言葉、発音かもしれません。 大和族の全てが縄文グループを殺戮し追い出したわけではないが、土地を手に入れることは、そこに住んでいた人々を殺す事は当たり前と考える人達でした。

    証明できるエビデンスはありませんが、殷の影響を強く受けているグループと思われます。 出雲族にも殷の影響が多少見られますが、大和族のそれは大きな影響を受けており、埴輪の巫女、出雲族が祭祀に使用した銅鐸を異常なほど忌み嫌うこと、祟りを非常に恐る、これらは殷の文化を受け継いでいると言えると思います。

    大阪平野に縄文人が住んでおりましたが、2300年前から渡来系の人々が入ってきて、10年後には渡来系の人口が上回っていた。 近畿地区の100キロ平方当たりの人口は、縄文中期 8人、縄文後期 13人、弥生 330人。この数字を見ても弥生時代に入り人口が急速に増えていることがわかります。 縄文人は定住をしているが、狩猟採集の生活であるゆえ、生きていく上である程度の土地の広さを確保する必要があります。それに対し稲作を基盤とする渡来系の人々はそれほど大きな土地は必要ありません。争いがおき、多くの縄文人が殺されました。縄文時代にはなかった争いが始まりました。 大陸で殺傷することに慣れた民が日本に来て、言葉も通じない、文化も違う縄文人を殺傷するのは当たり前のようだ。
    ⚪️出雲族はどのような人たちか?

  • 縄文系と渡来系がうまく交わった人々で、シベリア、中国、東南アジア、朝鮮をルーツとする渡来系が縄文と交わり混在したし社会。
  • 高句麗が発祥の四隅突出型墳丘墓から、高句麗または高句麗との混血した人々が首長として存在した。四隅突出型墳丘は鳥取を中心として日本海側沿岸に広く分布しており、リマン海流を利用すると、高句麗があった北朝鮮から出雲には簡単に渡れる。
  • 伽耶と強いつながりがあった。日本が製鉄を作れるようになる前は伽耶を中心として朝鮮半島より鉄を購入していた。 出雲の神紋は亀で、伽耶も亀をトーテムとする国で、タタラの発生と伽耶の衰退がシンクロしてる。
  • 3500年前 インドにアーリア人が侵入し、クナ地方にいたドラヴィダ人がブリヤード、アムール川、北海道経由で出雲に来た。ちなみに「タタラ」はサンスクリット語で「熱」とのこと。それ故に出雲の本当の神は大国主ではなくクナト大神とその姫神、幸ノ神と子神、猿田彦とのこと。
  • 銅鐸を祭祀に使用
  • 言葉は大和語とアイヌ語が混じった言葉と思います。18世紀まで蝦夷地であった東北北部ではアイヌ語が使われていた。出雲の名前についていろいろな学説があるが、アイヌ語のエッ(岬)とモイ(湾)から出雲になった説もある。
    ⚪️大和族はどのような人たちか?

  • 大陸から渡来人の集団で、殷の文化を継承していた人々。巫女の存在や呪術に関する考え方から殷の文化を継承しているといえる。 魏志倭人伝にも卑弥呼は鬼道と言われた妖術、占星術を操り、大和国に平和をもたらし続けたと書かれている。
  • 大陸文化の影響を受けているが、首長クラスの人々が自らを生贄となり自然の脅威に対応した神話や弟橘媛(おとたちばな ひめ)が生贄となり嵐を鎮める行為は大陸とは異なる精神文化を形成した人々。この精神文化が今でも生きてるような気がする。
  • 鏡を祭祀に使用。(大陸・朝鮮半島から来た渡来人全てが鏡を祭祀に用いている)
  • 言葉は大和語、今の日本語に極めて近い言葉。
    ⚪️大和族の奈良盆地への進出

    大陸から渡来し九州の日向に居た比較的勢力の弱い、大きくはない集団が別な部族に追い出され瀬戸内海を東に移動する。大きな力を持った集団であれば、基盤を中心として勢力範囲を広めていくのが普通で、 わざわざ船で東へ移動する必要性は無い。高千穂宮に大きな勢力があった痕跡がない。 西から初めて奈良盆地に入った大和族は大和王権を設立するグループと異なるグループの可能性がある。

    移動した時期は弥生時代の後半で紀元前7世紀ではなく、卑弥呼が現れる前か、卑弥呼が九州から大和へ移動したかもしれない。 集団、大和族は安芸の国で7年、吉備の国で8年過ごし、特に吉備の国とは特別な関係を築き大阪平野へと移動する。安芸の国と吉備の国の人々は大和族と同じ文化、共通性を持っており、 大和族が奈良に移ってからの墳墓は吉備の墳墓を模しした形になり、前方後円墳に至ります。ここで言う大和族は九州から来た集団と瀬戸内地方にいた集団が加わった集団。 奈良盆地は理想的な生活条件を備えておりました。

    三方山に囲まれており、防御に適している。真水の湖が盆地となった土地なので水田稲作に適している。 大和族が奈良盆地に来る前に、ここに住んでいた人々は出雲族です。大和族が奈良盆地を奪おうとして生駒山の西から中洲と呼ばれた橿原を目指して侵攻したが、長髄彦に敗れ撤退します。
    ⚪️出雲族と大和族の文化の違い

  • 祭祀の違い

    宗教の違い、思想の違いにより現在でも殺し合いが起きています。 出雲族は弥生時代中期から古墳時代が始まるまでの間、銅鐸による祭祀を行っていた。音を出しての祭祀は縄文時代から始まっています。土偶の中に粘土でできた球を入れ、音が出るようにしたり、諏訪地方を中心として褐鉄鉱に始まった鉄鐸が発展したものが銅鐸です。 大和族は光の祭祀です。中国に文明が生まれてから鏡が祭祀の道具として使われて、渡来人とともに鏡による祭祀が日本に来ました。

    殷の文化を色濃く持っている大和族にとって異なる祭祀を行う部族を忌み嫌っていました。卑弥呼が祭祀の頂点に立って三角縁神獣鏡を同盟の証として用いてから、すべての銅鐸が埋められました。

    殷時代の巫女による戦いのように、 負けた側の巫女は首を切られ棒に吊され、魔除けとして敵地に入る前に首を吊るした。出雲族は大和族に従うことを決めた時、殷の巫女の出来事を避ける為、銅鐸を埋めました。

  • 言葉の違い

    出雲の音、大和の光のように言葉も異なる言葉でした。異なるといっても、日本語と英語の違いではなく、日本語と韓国語の違いではないかと思います。 出雲族はアイヌ語と大陸朝鮮半島からの言葉とのミックスでできた言葉。大和側の言葉はアイヌ語が混じっていない大陸朝鮮半島からの言葉。文法は大陸朝鮮半島言葉も同じなので、短期間で意思疎通ができたと思うが、当初は全く別な言葉に聞こえた。
    ⚪️大和族の奈良盆地支配

    いちど敗れた大和族は再び奈良盆地に攻撃をかける。失敗した西側からの攻撃ではなく、東から攻撃できるように移動した。奈良盆地の地形は西から来る敵には防衛し易く、東から来る敵には弱い地形であり、大和族はどうしても東から再攻撃する必要があった。 推測するに大和族は熊野から奈良盆地に入っていないと思います。

    理由は、
  • 古事記を作成させた天武天皇と持統天皇の意向により脚色されたと思います。天孫降臨の神話も孫を天皇にする為に納得しやすい神話を作り、神武東征の熊野より奈良に入る話は壬申の乱での天武天皇が吉野に下り、 天照の威光を持って大友皇子に勝利する話を神格化する為と思います。

  • 海難に遭遇し兄2人が、怒りを沈めるために身投げをする。天智天皇の弟であった天武天皇が皇位を継承することを正当化する話。海難で弟2人が身投げをするならば理解できるが、兄2人が身投げすることは考えにくい。 神武天皇は歳下だが立太子だとしても、考え難い。

  • 八咫烏 三本足の鴉は高句麗と百済のトーテムです。大和族は同じトーテムを使っており、高句麗と百済もしくはその延長上にある部族の末裔ではないかと思います。天武天皇が絶大なる力を持ったとしても、 数多くの豪族が存在しており、その豪族の中には高句麗や百済を先祖とする豪族も多かったと推察します。その豪族たちに対し大和族は同じ系統である旨を示唆するための八咫烏であったと思います。

  • 多くの豪族たちが大和族に協力することは、天武天皇が吉野で挙兵時に多くの協力者があったことと重ねあわせた。古事記を活用し天武天皇は天照大御神の子孫で皇位継承権があることを強調するためではないか?
    ⚪️橿原に大和族の王国建設

    戦いに負けた長髄彦は大和族へ恭順せず、物部の祖神とされるニギハヤヒに殺されます。ここにも物部を悪者にする隠れて意図が見えます。 大和族は橿原に宮を構えてます。仮に神武天皇が即位した年を紀元前660年とした場合、橿原の中心地の海抜は50から60メートルであり大和湖の水面ギリギリであり、都を築くには適さない土地だった。 大和族が奈良盆地に侵攻して来た時期は200~250年頃ではないかと推察しますが、根拠の1つは銅鐸から三角縁神獣鏡に変わる少し前に奈良盆地に来て、大和族が三角縁神獣鏡を政治利用を始める時期が紀元前300年頃です。

    もう一つの根拠は、出雲地方を中心として日本海沿岸に広がった四隅突出墳丘墓が大和式の前方後円墳に変わるのが紀元300年頃だからです。大和族は出雲族の配下になった史実はありません。銅鐸は紀元前200年から紀元300年まで祭祀に使われていましたが、この期間に大和族が奈良盆地にいたとしたら、大和族は出雲族の配下になったことになります。
    ⚪️大和族が出雲族を完全に屈服させる

    出雲の国譲りは紀元300~400年頃と思います。根拠は前記した根拠と同じです。 出雲は出雲氏と神門氏が率いており、その配下に300の首長がおり、とても統率が取れた国とは言い難い地域でした。 古事記に書いてある「国譲り」は、出雲氏が事代主の神で、神門氏が建御名方の神に置き換えて、脚色して書かれものです。

    大和族と吉備族が協力して出雲に侵攻した時、出雲は二つの異なる首長、出雲氏と神門氏が出雲の国を率いていました。先に出雲氏が大和側に降り、祭祀を任され、まだ大和族の勢力が及ばない縄文人地域、縄文と渡来が出雲のように融合した地域の懐柔を祭祀的な側面からサポートする役目を担っていました。 一方、後から大和側に降った神門氏は諏訪に移されました。縄文の勢力が強かった諏訪地域で従来からいたモレヤ氏を配下に置き諏訪を上手くまとめた。まさに大和族が描いた通りになった。 旧暦の10月は出雲では神在月と言います。諏訪でも同じように神在月と言います。
    ⚪️八岐大蛇と鉄

    3世紀から6世紀ごろまで栄えた伽耶が新羅に滅ぼされます。伽耶は日本へ送る鉄の供給国でした。又 伽耶は当時 倭国と呼ばれた日本と強いつながりがあり、渡来人として多くの人が日本に来ております。
    「もののけ姫」に描かれているように、製鉄には大量の木材を燃やし、大量の泥や砂が発生し川の氾濫になっていました。 森林を伐採し過ぎた伽耶は代替え地として出雲を選び4世紀後半から5世紀頃、製鉄の一部を出雲に移管した。
    出雲の「タタラ」が斐伊川で始まった。カマドの「カマ」はちなみに韓国語でも「カマ」です。 タタラと地元の農業従事者との間は争いが絶えず、タタラで大量の木材が焼却され、川には砂と泥が氾濫した。 神話では、櫛名田比売の一家は八岐大蛇に苦しめられていた。タタラは炎を出して燃えていて、川は泥と砂で氾濫していて、まるで八つの頭を持った蛇が火を噴くように見えて当然のようだ。

    須佐之男命がタタラ製鉄がもたらす自然破壊に苦しんでいた百姓を見て助けることにした。八岐大蛇を殺し、須佐之男が八岐大蛇の尻尾を切ると劔の歯がこぼれ八岐大蛇の尻尾から劔が出てきた。

    三種の神器の一つになる草薙剣です。見方を変えれば出雲の製鉄が大和より優れていたということになる。タタラて作られた鉄とその当時の一般の製法による鉄とでは品質において雲泥の差がありました。 これを機に製鉄が大和圏に広がっていきます。
    ⚪️出雲の巨大神殿

    国譲りの代償として大国主命が住う空中神殿を大和族が作る神話に出てくる神殿は事実であったことが残っていた3本柱で証明された。48メートルもある神殿を建てる本当の目的は何か? 取り巻く環境、歴史的な事実を見て推察すると、3つの目的が見える。

  • 大国主をさらに神格化させ、祭祀の道具として出雲族と縄文族の抑えに使う。殷のやり方を踏襲してます。

    殷の統治と支配は祭祀によって行われており、原始的生活を送っていた時代、人々を結び付けていたのは宗教でした。宗教儀式=祭祀を掌握することがその地の支配権を獲得することでした。 殷は新たに帰属した国や部族に王室直属の祭祀官を送り込み、次々に勢力を広げていきました。支配地域を拡大していく過程で、その土地の神々を自国の祭祀に吸収し、祭られる神も増えていくことになります。 これは後で述べる門客人神社 (もんきゃくじんじんじゃ)とも関係しています。

  • 古事記でも高天原=渡来系の最高神を天照とし、葦原中国=縄文系と渡来系の融合グループの最高神を大国主とし、幽冥界の主として、それ相応しい神殿とした。 幽冥界の主が意味することは、政治には一切関わらない世界を意味します。

  • 朝鮮半島からの侵入に対する倭国の力の表示, 威嚇だった。 伽耶からの要請で倭国から兵を送って新羅を攻めた事が高句麗の 広開土王碑にも書かれているように、日本と高句麗は百済、伽耶を挟んで緊張関係にあった。高句麗は日本に攻め入る計画もあった。 百済の近肖古王は日本に友好の証として七支刀を送ってきて、刀は奈良の石上神社に納められた。
    ⚪️纏向遺跡

    纏向遺跡からの出土品から縄文から弥生、弥生から古墳時代の橿原地域で何があったかを考察します。 縄文人が大和湖の東側を中心として住んでおり、縄文時代後期から渡来人はこの地域に入ってきたと推察さます。 近畿地区の人口密度は縄文中期〜8人(100K m2当たり)、後期になり13人。 縄文後期は気温が下がりどの地域でも人口が減っております。それに対し近畿地区は増えており、渡来人による人口増加です。奈良盆地は早くから縄文文化と大陸系の文化が融合した地域でありました。 やがて出雲の影響を強く受け出雲族となる。代表的な根拠は、どの文化の影響を受けているか判断にあたり重要な要素は祭祀で、ここでは銅鐸を使っている。銅鐸は出雲の影響を受けている地域で使われ、 三角縁神獣鏡の出現と共に消滅しており、大和文化とは異なる祭祀が行われていた根拠です。坂田地区の墳墓には鶏、朝顔や冠帽形埴輪はあるが、円筒埴輪がない。 大和文化圏の前方後円墳は墳墓と死者の世界を区別するために墳墓の周りに円筒埴輪が置かれた。大きな墳墓になると数万個も並べられた。

    弥生時代後半には環濠集落になり、縦横1キロメートルの広さの集落になった。 人口も増え1世紀後半には3K m2(東京都台東区の3割程度の広さ)の広大な土地に王権があった。三輪山王権と言われている王権かもしれない。大型の建物は19.2m x 12.4mの規模に復元できる当時としては最大の建造物。 意図的に壊された土器や木製品のほかに動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀に使われたと思われる。

    纏向遺跡はユニークな特徴がある。

  • 農耕具が少ない。出土した工具の5%、通常は出土した工具の80%が農耕具です。
  • 竪穴式住居が少ない。
  • 祭祀の痕跡が多い。
  • 灌漑と運搬に使われた矢板を施した大溝。

    これらから判断出来る事は、政治管理機能と権力者が集落の中心にあり、当時としては大きな国家である。民は離れた場所にある集落に住んで、収穫した穀物を水を利用して権力者の倉庫に運んだ。出雲風の国家で権力者は政治と祭祀を司った国家だった。 4世紀中頃に突然消えてしまいます。なぜ?

    西から来た大和族に滅ぼされた?出雲族が大和族に屈服したと思う。大和族の基本戦略は交渉して、相手を分断し仲間割れを起こさせることでした。「出雲の国譲り」しかり、今回も長髄彦とニギハヤヒを分裂させ屈服させています。 数の少ない大和族が勝利した要因は呪力によることが大であると思います。この時点での大和族のリーダーは卑弥呼の可能性もあり、魏志倭人伝にも卑弥呼は鬼道を用いていたとあります。 大和族側に出雲族が屈服する呪力を持っていた可能性があります。ひょっとして、その呪力は古事記で「金の鳶」で表現されている呪力かもしれません。現代人には想像できない呪力に対する恐れがありました。 金の鳶は銅鏡を利用して光を敵に向け反射させ敵を怯ませたことを表現しているかもしれません。

    いずれにせよ、大和族が纏向にあった王権と合流し、4世紀中頃に政権争いがあり勝利した大和族が大和王権になったと思います。そして、前政権を隠匿しました。箸墓古墳が誰の墓か分からない事自体が隠滅です。 箸墓古墳を作るには膨大な時間と労力がかかっており、記憶や記録がないはずがない。驚き箸が刺さり死んだお姫様の墓?物語としては面白いですが!
    ⚪️大国主と三輪山

    古事記によると大物主は大国主に会い、大物主が三輪山に祀られることを望んだとある。 崇神天皇の治世に病が流行して人民の半ばが亡くなった。流浪者や反乱も続出。これまで宮殿には天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱を祭ってきたが治らない。新しい渡来人が継続的に来ていたので疫病を持ち込むこともあったと思われる。 崇神天皇は大物主を祀らせると疫病は終息し、国は治ったとあります。

    大国主は数多くの名前を持ち、大物主もその一つで大国主の和魂が大物主で大神神社に祀られ、三輪山は大物主を御神体としています。荒魂は三輪山登山入り口にある大神神社摂社の狭井神社に祀られています。 いずれにせよ大物主は三輪山に祀られ、三輪山が大神神社の御神体となります。

    人心の乱れ、災害や疫病は「祟り」によって起こると解釈することが多かった大和王権です。代表的な例は菅原道真のたたりです。桓武天皇は伏していて、怨霊を払う祈願を空海にしてもらうなど、祟り、怨霊は災害、世の乱れや疫病の原因だと考えるのは大和王権の習性でした。祟り、怨霊を鎮めることができる神は各地の神社に祀られます。

    大国主の場合も纏向で疫病を鎮めた事と、もともと縄文系の神であり縄文が強い地域の神社に祀られた。
    今回の調査で筆者が長年疑問であったアラハバキの神がなぜ門客人として祀られているのかの疑問が解けました。アラハバキはクナト大神と同じように大国主達が出雲の神になる前の神様でした。 古事記によると大国主は須佐之男命の六世の孫ですから大和王権の遠い親戚となります。大和と出雲は本来別な王権であり、突然親戚になるのは大和王権の意図を感じます。 埼玉県大宮市にある氷川神社の摂社が門客人として祀られているアラハバキの神です。主柱は須佐之男命。門客人とは元々の神であったが、新しい神が主柱になり、元々の神は摂社になる本末転倒の神です。

    長年疑問でした。なぜこのようなことが起こるのか? 大和王権の意向でこのようなことが起きたのです。大和王権は殷の文化も引き継いでおり、征服した土地の神は残し、新たに自分たちの神を送り統治するやり方です。 新たに征服した縄文系の強い地域に大国主を新たな神として送る方策は最良策です。

    7世紀の中頃 持統天皇により律令制が発布され神社がそれに対応せざるをえなくなったことや、明治になり廃仏毀釈により、本来の神社の形態から時代の要求に即した神社に変わったものが多い中で、大神神社と三輪山は縄文から弥生へ、 弥生から古墳時代へと大きな人為的な変化をせず、今日に至っている神社の原型をとどめている。

    人間はピラミッド状の山に美しさと安定を感じ崇めます。巨石や巨木には自然の中の畏敬を感じます。更に山裾からは美味しい天然水が湧き出ます。三輪山は神の山、 縄文時代は崇める山とし存在するのは自然な流れです。弥生に入って巨石が磐座信仰になり、神格化した人、大物主が更に加わり現在に至る日本神道の歴史を感じる場所です。

    なかなか良い表現がなく、神と宗教としています。ここで言う神は、一神教で言うマイティーな神ではなく、恐れ、畏敬、逆らいきれない力を感じる物の総称として用いています。 皆様も機会があれば是非 行って見て下さい。