写真は一部寄稿者のものではありません。

縄文住居
『縄文から学ぼう』 
『ページ 2 縄文と翡翠と三種の神器』

寄稿 : Mr. Tom Ito
『ページ1 縄文 三内丸山遺跡』 『ページ3 韓国~日本との繋がりを訪ねて』 『ページ4 縄文の勾玉を追って〜前方後方墳』


縄文と翡翠と三種の神器 日本列島に北から、南から人々が移住し縄目文様を施した土器を使い始める今から16,000年前から2,300年前を縄文時代と呼んでいます。豊かな自然に恵まれ、四季折々の食べ物、海の幸、山の幸が溢れた環境で狩猟採取の定住生活が始まりました。

今から16,000年前に人類の歴史で初めての土器作りが始まりました。 土器を作り、以前は食べられなかった物も食べられるようになり、益々生活が豊かになりました。食の革命です。

自然界からの供給が枯渇しないよう配慮しながら大変ゆとりのある生活をしていました。バランスのとれた食生活で、弥生時代よりタンパク質の摂取量は30%多かったようです。歯のエナメル質も江戸時代より縄文時代の方が良かったそうです。 主に食べられていた木の実はクリをはじめ、クルミやドングリ、シイの実、トチの実などで、現代でも食されているものです。

木の実を、平らな石皿に入れて、丸いすり石を握って木の実をつぶして粉にし、それに水を加えて練って、パンやクッキーを作っていたのです。山芋などをつなぎとして使っていた可能性もあるそうです。また肉の長期保存に、土坑を使って煙でいぶして燻製を作っていました。お酒も果実酒の原料になるニワトコの実が大量に遺跡から発見されていることから、すでに縄文時代にはお酒もありました。人々はシカ、イノシシ、ウサギ、タヌキ、時にはクマといった動物を捕獲したり、ドングリ、クリ、クルミ、キノコや山菜を採ったり、サケ、ブリ、ヒラメ、カツオ、マグロといった魚や、シジミ、アサリといった海の幸を得て生活をしていたようです。

狩りの方法は弓で矢を放ち仕留めたり、落とし穴を掘って捕獲したりしていたそうですが、落とし穴は静岡県の遺跡で見つかったものは三万年前を超えており旧石器時代のもので世界最古の「わな猟」です。また、はじめは植物採集でしたが、定住するころにはクリ、クルミ、イモ、マメ、エゴマ・ヒョウタンなどが栽培されていたようです。 働く時間は1日に3〜4時間程度で女性はオシャレを楽しみ人々は歌ったり踊ったり生活を楽しんでいたようです。 余裕のある生活が火焔土器に代表される縄文土器、土偶、漆の工芸品を作りました。人と人の殺し合いが無く、 ゆとりのある生活は縄文人の芸術性を高めました。 火焔土器がその代表です。世界に誇れる縄文土器、土偶については別な機会にお話ししたいと思います。

世界に誇れる漆工芸技術も縄文時代に始まりました。中国の漆器より1500年以上古い9000年前の漆器が函館の遺跡から出ております。 漆器以外にも漆塗りのクシも作られていました。縄文人の素晴らしさは漆の木が枯渇しないように植樹しながら漆の液を取っていました。 ところで漆器を英語ではJapan です。

アスファルトを接着剤として使い始めたのも縄文人が最初かもしれません。 世界最古の文明、メソポタミア文明のシュメールで、貝殻と青い宝石ラピスラズリ(青金石、 古くは瑠璃と言いました)をアスファルトで 固定した品が出土しています(B.C.2700年頃と推定) 縄文時代に「矢じり」を矢柄に接着するのに使われたり、土器、土偶の修理に使われていました。国宝の合掌土偶にもアスファルトが 接着剤として使われていました。

人類は250万年前から石を使い道具を作ってきました。石の道具が人類を他の動物から守り、道具を使い狩が出来るようになりました。 道具としての石の最高峰は黒曜石でした。カミソリにも負けない鋭い刃になります。日本の代表的な産地は長野県の和田峠、 伊豆七島の神津島等で、全国に流通していました。縄文時代において黒曜石は今の鉄鋼のような存在だったと思います。川、 海の海上輸送を使い全国に流通していました。銅・鉄を持っていなかったマヤ文明でも黒曜石は大事な取引製品でした。マヤ文明 トゥルム遺跡の城壁都市は黒曜石の重要な取引拠点として栄えていました。

翡翠を用いて女性の装飾品、呪術用の飾りを作り始めたのも縄文時代で中国より古く、最古です。 未だになぜ翡翠文明が縄文時代に始まったのか謎です。

筆者は次のように考えています。 石は生活に欠かせない材料で、手に入るあらゆる石を調べていました。翡翠は硬度が6.5〜7.0(鋼鉄に傷をつけられる硬さ)と硬く最も割れにくい美しい半透明な石で、 緑以外にも白に緑が混じった石、薄茶色など色々な色があります。日本では新潟県糸魚川から産出されます。 糸魚川地区に住んでいた人々が翡翠の美しさと割れにくさを備えた石に不思議な魅力を感じたのは当然だと思います。 人々は石を「聖なる物」として考え、霊的な存在として崇めました。又 儀式や魔除けにも石を用いています。ギリシャ、 ローマではラピスラズリを、古代インド、ペルシャではオニキスを用いています。ジプシーの水晶の玉もその一つですね。

世界最古の翡翠の利用例は、糸魚川市の大角地遺跡から発見された縄文時代(約7000年前)の翡翠の敲石(たたき石 ハンマー)です。 装飾品ではありませんが、堅く高比重という翡翠の特性を生かした道具です。

翡翠の装飾品が土器と一緒に出土しました。土器は縄文時代前期(約5000~6000年前)のもので、 共に出たことから同じ時代のものだと考えられ、時代のわかるもののなかで、今のところ「日本最古」とされています。 石の大きさは、たて5.5cm×よこ3cm・厚み2.2cmです。私たちがつけるペンダントに比べると少し大きく思います。 当時のアクセサリーは、首・手首・足首など体の細くなっている部分につけられ、出土数が多くないことから、 身をまもるお守り・魔除け(まよけ)に使われていたと考えられます。
翡翠で作る大珠(たいしゅ)という装飾品が、東日本を中心に重要なまつり道具として使われました。基本的には中央に孔があいていて、 首飾りのようにして使われたものです。

10,000年以上も殺し合いがなかった平和な縄文時代に比べ、都市国家間の争い、生贄を求め他の部族を攻撃し捕まえ、 沢山の人間を殺し、神に捧げたマヤ文明でも翡翠が重宝されました。死後の世界で翡翠はジャガーの攻撃から、 極寒の棺から守ってくれると信じられていました。ガアテマラのモタグア渓谷から翡翠の原石を採取していました。

パレンケの翡翠の仮面は大変有名ですが、他の遺跡 例えばカラクルム遺跡からもたくさんの翡翠の仮面が出土しています。 翡翠の代表的な色である緑はマヤ文明において中心を表す重要な色です。 マヤ文明があった中南米はトウモロコシの原産地で色々のトウモロコシがあり、色で方位も表していました。 白は北、赤は東、黄色は南、黒は西、そして中央に緑がありました。このような文化背景で翡翠が珍重されるのは当然なようです。

中国でも翡翠は殷時代から使われていました。ただ中国で使われている翡翠は別種のネフライト(軟玉 )であり、 日本と同じ翡翠の硬玉の普及は清朝中期以降です。 アジアにおける翡翠の硬玉は糸魚川とミャンマー北部から産出されます。軟玉は硬玉に比べ色彩が劣りますが硬玉と同じような 緑色があり珍重されてきました。

朝鮮半島の5世紀から6世紀にかけての新羅、百済、任那勢力圏内からも大量の翡翠の勾玉が発見されています。 翡翠を分析すると糸魚川の翡翠で、日本から来た翡翠です。

大和朝廷と百済、九州の大豪族 磐井氏と新羅の関係に代表されるように日本と朝鮮半島は深い複雑な交流がありました。

翡翠製品は大珠で始まり勾玉に至ります。 翡翠の勾玉は縄文中期から作られています。三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡などから発見されています。

勾玉は翡翠以外の材料、瑪瑙などの材料でも多数造らていました。勾玉の形は、胎児説、三日月説、牙玉説と色々な説があります。 筆者は勾玉の形は胎児の形から来ていると確信しています。縄文時代の勾玉は古墳時代や飛鳥時代に比べ、 ズングリした形で胎児によく似ています。縄文時代の出産は女性にとって死を覚悟する大イベントでした。人間の出産が他の動物に比べ大変な理由は人間が二足歩行することで骨盤が歩行に適した形になり、逆に出産には適さない形になった為です。 土偶は縄文早期(9,500年前)から作り始めました。土偶は全て女性の土偶で、妊娠してお腹が膨れている土偶も多くあります。 土偶は安産を願い精霊に捧げる為に作られました。土偶は壊されバラバラに分散して埋めました。苦労して作った土偶を壊すので母親も胎児も精霊の世界に奪わないようにと、 願いました。 縄文時代を通じ単純な形の土偶から複雑な形の土偶まで無数の土偶が作られています。 出土している土偶は18,000にもなります。

安産を祈ると同時に、亡くなった子供の再生を強く願っていました。亡くなった子供を土器に入れ、家の出入り口に埋葬しました。 土の上から土器を踏み、子供が母親の体内に戻るよう願い、生活していました。

このような時代に胎児の形をした勾玉が生まれました。翡翠勾玉は身をまもるお守り・魔除け、 命の再生の祈りの道具として始まりましたが、次の時代の弥生、古墳時代、飛鳥時代には高価な装飾品、御守りとなりました。 糸魚川からの翡翠は各地に運ばれ玉作りは広がっていきました。古墳時代の豪族の墓から翡翠の勾玉がたくさん出ています。 魏志倭人伝(三世紀前半の日本の事が書かれた書物)にも出てきますが、邪馬台国の王・壱与(卑弥呼の次の女王)が、人間30人、 真珠5000個、勾玉2個を魏の王に貢ぎ物として送っています。この例を見ても勾玉はとても高価なものであった事が分かります。 蘇我馬子が建てた我が国 最初の寺院に仏舎利と共に翡翠の勾玉が埋められていました。

外部から来た新しい考え、宗教である仏教と縄文古来のアミニズが融合した日本独自の宗教観が仏舎利と勾玉の組み 合わせに見られます。

この時期の百済で建てられお寺からも仏舎利と共に日本からの翡翠の勾玉が埋められていました。 古墳時代には日本のみならず朝鮮半島にも広く翡翠勾玉が分布しておりました。

天武天皇・持統天皇 御夫婦は今日の天皇制を作ったと言っても過言ではないと思います。 天武天皇には甥、持統天皇には兄と争った壬申の乱の辛い経験。天皇は血縁で決まる時代ではない時、 息子が早く亡くし孫に王位を継承したい。尚且つ今後は天皇継承で争いが起きない新たな制度を作る必要性を感じたお二人。

そこで考えついたのが天孫降臨と三種の神器です。天照大神は息子でなく孫を降臨させた。天孫降臨で持統天皇の孫、 軽王子を次の天皇にすることの正当性を作った。これにより血縁で決まる慣例ができ、力に頼らない血統天皇制ができました。 国家の権威を天皇が持ち、政治の実権を官僚が持つ日本独自の天皇制ができました。 日本書記には記述がないが古事記には天照大神が天孫降臨時、三種の神器を持たせると書かれていますが、 この神話も天武天皇・持統天皇が作ったと考えています。三種の神器を持つことが即位の条件ですから、 親から子へ三種の神器を渡すことで即位が簡単に可能になります。無駄な継承争いが無くなります。 三種の神器は中国の皇帝権のシンボルである伝国璽の制を真似たと言う説がありますが、それであれば鼎(かなえ 三本足の祭器)又はハンコを用いればすみます。古墳時代の豪族の墓から剣、鏡と勾玉が沢山見つかっており、 これを真似て三種の神器にしたと言う説もありますが間違いです。豪族の剣、鏡と勾玉は死者が生前に使用した物を 一緒に埋葬しているだけで、三種の神器のように王位の継承の為の物ではありません。

持統天皇の即位から勾玉が加わり三種の神器を継承した即位が行われました。 三島由紀夫は尊皇精神に満ちていた作家で、最後に守るべきは、天皇ではなく三種の神器であると言わせるほど 天皇継承に不可欠な存在になりました。 三種の神器を継承することのもう一つの意味は次の三つの勢力を掌握することと同時に悪霊から子孫を守り権力の象徴である 三種の神器を持ち子孫がつつがなく繁栄することを願う祭祀化することですかね

鏡の殷。持統天皇時代には殷はすでに滅んでいましたが殷の影響を受けた勢力がヤマト王権に存在していました。 剣は青銅・鉄を持っている出雲勢力圏を意味する。勾玉は従来の縄文からの信仰を信じる勢力を表しています。

殷とヤマト王権の関連が理解し難いと思いますので一例を挙げます。殷での戦いでは鬼の化粧した「媚」と呼ばれる巫女 が戦闘の先端で呪いで相手を滅ぼす戦いをしていました。前方後円墳から巫女の埴輪が出土します。色が落ち分かりに くいが巫女は殷の巫女のように鬼のような化粧をしていました。これは一例で、殷との関連を示す事例は沢山あります。

殷時代以前から青銅鏡は化粧道具として、又魔除けの道具として扱っていました。やがて鏡を神霊化、 王権の象徴として用いられていました。銅鏡の文様はまさに殷の象徴です。殷時代末期に周に破れた殷の人々の移動で 大陸からかなりの数の人が日本にきました。

剣は出雲を表しています。出雲はヤマト王権に勝るとも劣らない勢力があり、青銅器を数多く保有していました。 出雲は青銅から鉄へと移行してきました。出雲は四隅突出墳墓に代表されるように日本海側にヤマト王権とは異なる 勢力を持っていましたが国譲り神話にあるように出雲はヤマト王権に従属しました。 須佐之男命 が高天原から 追放され出雲で櫛名田比売を助けて八岐大蛇を退治し大蛇体内から取り出した剣が草薙剣です。 この神話が意味することは、ヤマト王権が出雲の刀作りを掌握する話です。

勾玉は縄文時代から存在する勢力を意味します。中臣氏や物部氏のように縄文系の有力氏族が存在していました。 中臣氏が勾玉を三種の神器に加えるよう提案したと言われています。

仏教を推進するグループに対し縄文から引き継がれてきた古来の信仰を支持しているグループが権力争いし、 仏教推進派の蘇我氏が勝ちます。 勾玉を持つ意味はこれらのグループを掌握することと、勾玉が持っている悪霊から守る霊力を身につける意味があります。 天照大神や神武天皇が描かれた絵を見ると勾玉の首輪をしています。縄文人のアミニズから生まれた勾玉が天照大神、 神武天皇に代表される渡来系の人々に受け継がれている面白さを感じます。